2020年5月18日月曜日

32 アメリカンライフ 幼稚園

32 アメリカンライフ 幼稚園
 大規模なアパートメントの敷地に幼稚園があったので、これ幸いとそこに長男を入れたが、やはり英語がまったくできないのでコミュニケーションが取れず、行くのを嫌がった。それは子供達同志のコミュケーションが取れないのがストレスというより、先生が他のコミュニケーションを取れるNATIVEの子供達の面倒は見るが、コミュニケーションが取れないウチの長男のような子は面倒を見てくれないという事が問題だった。家内が子供の様子を見ると、他の子達は何かお遊戯みたいな事を皆でしていても、うちの子はその中に入れず、先生はそれを放置していた。まあ費用も安いので、その程度の幼稚園だったという事なのだろう。
 そこで日本人で近所に永住権を持って住まれているファミリーのお子さんが通っている幼稚園が良いらしいという事で今度はそこに入れることにした。その幼稚園は教育費もこの近辺では一番高かったが、それだけの事があった。アメリカ社会に住んで分かったのは「金を出せば、それなりのQualityのものが得られる」という事だ。教育費が高ければ、親もそれなりの収入のある職業の人達で、子供もそういう家庭で育ったご子息達で育ちの良さが感じられた。それなりの金額を払っている以上、それなりの教育をしてくれるものと親も期待しており(結構PTAのプレッシャーも強い)、先生にも緊張感、使命感があった。
 入園時には親と先生の面談があり、詳しく子供の事を聞かれて、実際にその子に合ったレベルで先生は面倒見てくれた。コミュニケーションがうまく取れず輪の中に入っていけない時は、先生がキチンとフォローして入れるようにしてくれたし、育ちのいい他の子供達が手を差し伸べてくれる事もあった。友達もでき、ここの幼稚園は喜んで通うようになった。
 クリスマスの時はイエスキリスト生誕のお芝居をするのだが、ちゃんとセリフのある役(3人の博士のひとりだったかな?)をあてがわれていた。英語もメキメキ上達し、友達の輪にも積極的に入れるようになってきた。この幼稚園は本当に良かった。
 家賃がそこそこ高いエリアを選べば安全と快適さ、ちゃんとしたファミリーのご近所さんを得る事が出来たし、高い幼稚園に入れば質の高い教育を受けれたと同時に、裕福な家庭=ハイソサエティーの子供達の輪に自分の子も仲間入りさせてもらう事ができた。
 そんなことでアメリカの格差社会の片鱗のようなものを感じる事ができた。
 うちのアパートの棟の裏庭。木がうっそうと生えている。やっぱりアメリカは緑が多い。
特にワシントン州はエバーグリーンステイツ(それぞれの州に呼称がある)と言われて、針葉樹の緑が多い

うちの取引先の会社のオーナーもご近所さんだった。中でパーテイーができるようなクルーザーをお持ちで(おそらく1ミリオンドル以上はすると思うが)、日本からのビジターが来ると自分の船で接待してくれた。金持ちファミリーは親切でいい人、奥様はたいてい美人(笑)

2020年5月10日日曜日

31 アメリカンライフ 住居

31 アメリカンライフ 住居
 先ずは長男が通う学区を中心に住む場所を考え、最終的にシアトル郊外のRedmondという街にアパートを借りた。せっかくアメリカだから一軒家も考えたが、こちらのアパートは日本の一軒家と同じぐらい広いし、セキュリティーやメンテナンスも行き届いているので、やはりアパートの方が外国人には楽かなと。それ以外にもパーティのできるレンタルルーム、住人は無料のジム&プール、レンタルの車庫・倉庫、幼稚園、警備会社の巡回警備などあり、住んでみたらとても快適。アパートの一つの建物は2階建てで外階段、正確には忘れたけど建物も40棟ぐらいはあり、敷地も広大でアパート敷地内に公園や森林もあって、引っ越してしばらくは自宅に戻るのにアパートの門からよく道に迷った。
 すぐ隣が当時のマイクロソフトの本社(メインキャンパスと呼ばれていた)だったので、マイクロソフトの外国人プログラマーが沢山住んでいて国際的な雰囲気もあった。同じ棟にインド人、韓国人家族が住んでいて、かみさんはカレーの料理法やキムチの漬け方を教わっていた。マイクロソフトのプログラムって殆ど外国人プログラマーで造られてる感じでいわゆるCaucasian(白人)は経営陣と営業と宣伝をやっているとよく言われていた。
 アメリカに駐在して感じたのはやはり格差社会で、いろいろな統計数字があるが、当たり前だが全体の平均値でしかない。例えばアメリカ全体や州全体の犯罪率や寿命の数字はよく国対比で目にする事はあるが、都市別、地区別にみると数千倍に近い格差を見る事ができる。米国は情報公開が進んでいるので、例えば先のブログでも書いたが、各学校区別の人種、偏差値、統一テスト成績、クラスの人数等情報を知る事ができる。犯罪率の地区別で雲泥の差があり、危ない地区なら歩いていたら何回か一回は犯罪に会う地区から、安全な地区は日本の平均より遥かに安全という感じ。勿論、私達家族は安全な地区に住んだのだが、深夜にその地区に車で走っていると警察に確実に停められるので、問題は無いがちょっとびびっていた。聞いた話では、ある一角の地域に限定すれば寿命は40代前後、医療費が払えない、乳児死亡率が高い、DV、ギャングの抗争、犯罪・麻薬絡み、不健康な生活が原因となっているとの事。
 実際シアトルでも「危ない場所」というのがいくつかあり、7年駐在して1,2回しか足を踏み入れた事は無かった。そもそも普通の人は行ってはいけない、行くべきところではないという認識だった。
 私達が住んでたアパートは、それほど高級ではないが、収入で言えば中の上、上の下ぐらいの位置づけの世帯が住んでいたので住み心地は良かった。地元球団シアトルマリナーズのスター選手(アレックスロドリゲスも当時は所属)以外の中堅・控え選手も住んでいて、郵便受けに取りに行くとばったり会ったりするので、「この間は出てたね~」「得点につながるヒットあったね~」と言うと嬉しそうにしていた。マリナーズの試合を観に行くとご近所さんが出ていないかチェックしていた。

 南北に走る国道5号I-5をバンクーバーに向かって1時間半車で走った辺りにあるスカジットバレーのチューリップ畑
チューリップが満開になるのは3月下旬から4月中旬にかけてで、この頃にチューリップフェステイバルが開催される。
 その規模=株数はオランダを凌ぐ世界最大のチューリップ畑との事。
 ワイン醸造所の建物。カリフォルニアワインは有名だが、ワシントン州も結構ワイン生産している。
 カスケードループから海を臨む
ワシントン州最高峰のレーニア山。標高4392mと富士山より高い。まあ誰でも登れるが常に雪があり、滑落や遭難の危険もあるのでガイドツアーで登った方が安全。私はいつも家族と一緒に行ったので、山頂まではいかなかった。やはり富士山同様、結構上まで車で登れる。

2020年5月6日水曜日

30 アメリカンライフ 観光

30 アメリカンライフ 観光
仕事以外での米国での生活の話。
家族もシアトルに引っ越してきて、生活も落ち着いて余裕が出てきた頃には、アメリカの観光地に家族と旅行に行った。行った当初は子供は長男ひとり、赴任して3年で次男が生まれた。

米国お勧め観光地ベスト3
第1位 アラスカの氷河
夫婦一致での第一位。その壮大な景色に圧倒される。水産物の買付けでは頻繁にアラスカ出張していたので、だいたいのロケーションは分かっていたが、氷河を本格的に見るのは初めて。アンカレッジから車で見に行けるのがポーテージ氷河。そこからさらに南下し、セワードという町が氷河観光クルーズの出発港となり、ここからアイアリック、ホールゲート氷河を見学する観光船が出る。このルートがお勧め。船上で氷河の氷=千年前の氷のオンザロックが飲める。



 ところで怖い話。セワードはアラスカでも歴史ある古い町で古びたクラシカルなホテルに泊まった。 Van Gilder Hotelというホテルで、なんとなく不気味な雰囲気で、まだ幼かった次男が「部屋の隅に女の人がいる~」と怖がって私のベッドに入ってきて一緒に寝た。我々家族は「幽霊の出たアラスカのホテル」と呼んでいた。それからもう二十年近く経ち、その記憶を忘れた頃、たまたま長男が「アメリカで幽霊の出る10のホテル」という記事を見つけたのだが、なんとその Van Gilder Hotelが10の一つに入っていたのだ。それも幽霊は彼氏に撃たれて殺された女性で、幽霊の出る部屋はまさにその泊まった部屋。今思えばアジア人の家族だからそんな事気にしないだろうとフロントがその空き部屋をあてがったのだと思う。

第2位 ナイヤガラの滝
エリ―湖からオンタリオ湖に流れるナイヤガラ川にある滝。カナダオンタリオ州とアメリカニューヨーク州とを分ける国境になっている。カナダ滝とアメリカ滝があり、カナダのトロントから南南西に20km(75mi)、アメリカのバッファローから北北東に27km(17mi)と二つの都市からアクセスできるが、私達はトロントからナイヤガラにかけてのワイナリーにも立ち寄りたかったし、トロントも観光したかったので、トロントに飛んでレンタカーで行った。お勧めはカナダ滝なら滝の裏側から滝を観れるツアー、アメリカ滝なら滝の落ちる場所の近くまで近づくツアー、カナダ滝は滝つぼが深くなっている一方、アメリカ滝は滝つぼはなく、直接岩に打ちつける感じ。アメリカ滝の落ちる場所に近づくツアーは滝の水を大量に浴び、吹っ飛ばされそうな勢いで迫力満点。




第3位 グランドキャニオン
やっぱり結構な迫力で素晴らしい景観ですが人が多くて暑い。下まで降りる道があるが、降りたらもう登る体力が無いだろう。インスタ映えという点では、朝焼けか夕焼けのグランドキャニオンがお勧め。大抵はラスベガスとセットで両方まとめて行くのが便利。
但し家族でラスベガスに行くと、子供、奥さん、旦那と楽しみ、興味が違うので一緒に行動するのが難しい。カジノに子供は入れないし、子供向けのショーもあるが、大人向けのショーは子供が入れない。ショーのスケジュールも沢山あって事前に計画しないと1日のスケジュールが上手く組めない。




2020年5月4日月曜日

29 米国駐在 JAZZ

29 米国駐在 JAZZ
 今回は仕事以外の話。9月に米国駐在したが、家族で住める体制を準備する為に、しばらくは単身赴任だった。前任者は独身でシアトルの高級住宅街Queen Annのマンションに住んでいたので、とりあえず彼の住居を単身赴任の間は引き継いで住んだ。家族の為には子供の学校区や親子で住める住環境等、いろいろ考える必要があり、最終的にはシアトルから車で20分程度離れたRedmond市の閑静な住宅街のアパートを借りた。Redmondはマイクロソフトの最初の本社があった場所で、ビルゲイツもご近所に住んでいた。学校区に関しては結構細かいデータが入手できて統一テストの偏差値・人種・設備等調べる事ができたが、やはり黒人が多い学区=偏差値が低い、白人が多い学区=偏差値が高いという傾向があり、我々が住む事にした学区はアジア人が多くて、数学等中心にそこそこ偏差値が高い学区だった。一番偏差値が高いのはマーサーアイランド周辺の豪邸ばかりの地区で、ほぼ生徒は白人、おそらく全員がお金持ちの子弟であろう事が予想され、ここには住めないと思った。ビルゲイツもマーサーアイランドでは無いが、その近くの湖に面した大豪邸に住んでいた。

 当社のオフィスはシアトルの中心街にあり、ユナイテッドエアラインビルと呼ばれ、全体はオフィスビルではあったが、一階と地下には西海岸では有名な名門ジャズクラブ、ドミトリアス・ジャズアレーがあった。ライヴは食事とセットになったメニューがあったが、家で一人で食事するのもつまらないので、ライヴが始まる時間までオフィスで仕事をして、そのままライヴを聴きながら食事をしていた。ピアニストはチックコリア、マリアンマックパートランド、ジョンルイス、ボーカルはクレオレーン、ギターのジョーパス、サックスのケニーG(彼はうちの近所に住んでいた)、パーカッションのテイトプエンテ等名だたるプレイヤーが出演していた。私が一番好きなピアニスト、マッコイタイナ―も時々出演していて、その時はピアノのすぐ後ろを予約して、彼の奏法をじっくり観察していた。まあだからと言って彼のように弾けるようになるわけではないが…
 彼の演奏はピアノテクニックも凄いが音の感性も独特で、同じ曲でも彼が弾くと、まったく別の曲のように思えるほどだったし、聞いたことのない和音が散りばめられている感じだった。
 ある取引先の人に自分がマッコイタイナーのファンである話したところ、「マッコイは友達だから、彼のライヴの時に一緒に飲もうか」と言ってくれた。写真はその時のもので、「そんなに凄いピアノはどうやったら弾けるんですか?」とべたな質問をしたら「自分は寿司が好き、魚が好きだ。(DHAやEPAなどの)魚の油は体にいい。多くのJAZZプレイヤーは不摂生で身体を壊して、演奏できなくなるが、俺は健康に気を付けているし、魚の油で頭が冴えている」といった予想外の回答だった。でもそれ以来毎日DHAとEPAの栄養補助食品は欠かしていない。
 
偉大なジャズピアニスト、マッコイタイナ―とジャズアレーで

2020年5月1日金曜日

28 米国駐在

28 米国駐在
 アムステルダムで前所長との法廷係争を担当していたが、そこでの経験が買われた訳ではないと思うが、法務部ともコミュニケーションがよく取れていたので、「米国移駐したら早速こちらの係争も片付けてくれ」というのが本社からの指示だった。
 米国は法人格になっていたので、シアトル支店長と言われていたが、正式には米国現地法人副社長というタイトルで赴任した。当時の当社は2件の係争を抱えていて、1件は割とシンプルにカナダバンクーバーの会社にお金を貸していたのだが返済が滞り、こちらが訴えた案件。これは単に法的な手順をしっかり踏んで焦げ付いた債権を回収する作業で、ビジネスではよくあるケースだった。本社からは支払い督促の為、月2回はバンクーバーに行けという指示だったので、シアトルから車で3時間離れたバンクーバーに何度行ったことか。行って督促すれば払ってくれるものではなく、しばらくその会社の社長と話をした後は、せっかくだから何かバンクーバーでビジネスがないか調べては市内を回った。バンクーバーについてはガイドブックを書けるぐらい詳しくなっていた。

 もう一つの係争はなかなか理解しがたいケースで当社がお金を貸していた先が倒産し、向こうから訴えらているもの。それも貸した金の数倍の賠償金を借りた側から請求されているという不可思議なケースで、こんなもの負ける訳がないと思っていた。
 5年間毎年お金を貸すという約束だったが、途中で当社が貸すのを辞めたので倒産してしまった。会社にとってお金は空気や水と一緒で止めたら死ぬのは明らか。ちゃんと約束通り5年間お金を貸し続けたらちゃんと事業として儲かって、返済できたし、自分にも利益が得られた。だから借りた金は返さない事は勿論、5年後に出るはずだった期待利益相当を賠償金として払えという主張(Punitive Damageに対するCompensationとか言っていた)
 当社も理由なく融資をストップした訳でなく、会社のお金の私的、不透明な流用が発覚し、その為警告してストップした。
 係争で負ける訳がないと思っていたが、担当する弁護士事務所の話では、相手は陪審員制度に持ち込むつもりで「日本の悪い会社に騙されて会社がつぶされた」と涙ながらに陪審員に訴える戦略で、下手すると負けるリスクありとの分析。
 そこで当社のとった戦略は「本件はビジネスに関する係争であって、陪審員等一般の裁判には向かない。ビジネスに関する専門的な知識も必要であり、陪審員制度のない商業裁判所で審議すべき」という事で商業裁判所への持ち込みを訴えた。
 結局裁判所での審議の結果、陪審員制度無しの商業裁判所での審議・判決という事は決まった。これによってほぼ当社の勝訴は固まった。そこで向こうは示談を持ち掛けてきた。どうせ勝てるので示談に応じる必要もなかったが、貸した金が返る見込みはなかったし、裁判を継続するのはこちらもお金がかかるので、債権は放棄、その代わり訴訟は取り下げという示談で決着した。

 この法廷係争で学んだのは「法律係争の勝負は弁護士事務所で決まる」という事だった。当時のメーンバンク東京銀行の紹介でシアトルで一番高い弁護士事務所に依頼したのだが、目が飛び出るほど高かったが、これがやはり勝訴の一番の要因になった。
 弁護士はいわば「傭兵」、これが強いか弱いかで結果が決まる。相手の弁護士は小さな法律事務所だったが、彼もはなからもう勝ち目はないと思っていたような態度だった。
 シアトルの一等地のビルの最上階に事務所を構えるそのオフィスは、私の好きなアメリカドラマ「グッドワイフ」や「スーツ」に出てくるような弁護士事務所オフィスそのもので、今でもこういったドラマを見るとその時の記憶が蘇って懐かしい気がする。
 シアトルの遠景。この中心部の高層ビルの上に弁護士事務所がある。
シアトル郊外のスノコルミーの滝。米国の人気ドラマ「ツインピークス」のロケ地でもあり、ツインピークスのファンが訪れる。実際、二つの山(ツインピークス)もあり、雰囲気もドラマそのもの。
しかし思えば米国駐在中にコロナとかなくてよかった。SAARSはあって熱があって病院に行ったら宇宙服のような服を着た医者に診断されて驚いた。

2020年4月27日月曜日

27 米国への移駐 

27 米国への移駐
 アムステルダムに短期駐在したまま、米国転勤の辞令が出て、私はなんとなく予感していたので落ち着いていたが、妻は長期に夫が不在な状況が続いた中で、いきなり米国転勤という事でかなり戸惑っていた様だった。
 駐在地はワシントン州シアトル。米国民へのアンケートで「住みたい街TOP10」に必ずランクインする都市で、米国でも住みやすい街と言われていた。
 
 主な産業はウエハウザー等を代表する木材製材業、ボーイングの本社と工場がある事から航空機産業、アラスカの後方支援基地としての造船・航海機器・水産業、そしてマイクロソフトの本社がある事からその関連企業が集まっていた。またコーヒーのスターバックス、大手ホールセールのコストコの本社もあり新しいトレンドを取り入れている都市として経済的にも恵まれており活気があった。今はシアトルといえばアマゾンの本社がある事で有名だがその頃はまだアマゾンという企業の名前は知られてなかった。

 スターバックスと言えば面白い思い出がある。同社の創業者はハワード・シュルツという1953年生まれの実業家だが、彼はシアトルに1号店を開いた。パイクプレイスマーケットという港近くの食料市場の入り口の目の前にあり、今でも観光の名所となっている。そのシュワルツ氏が当社のシアトル事務所にコンタクトし、出資を求めてきた。1980年後半だから同氏がまだ30代前半、まだ若者の部類で当時のシアトル支店長は「喫茶店をいくつか経営している若者が金出してくれってコンタクトしてきた」とちょうど出張していた私に話してくれた。まあ一応どんな店か行ってみようと支店長と一緒にその1号店に行ったみたが、当時は今のようにデザインやコンセプトもおしゃれに統一されておらず、ただの喫茶店という感じだった。でもコーヒーは美味しかった。当時のアメリカのコーヒーは豆の種類は安ければ何でもいい、何杯でもお替り自由という飲み物だったので、豆も厳選してお替り無しで結構高いというので、ついにアメリカ人もコーヒーに拘る時代が来たかと思った。その頃日本はコーヒーブームでコーヒー専門店で豆もブルーマウンテンやマンデリンと選んで、コーヒーを淹れるのもフィルター、サイフォン、水出しと選べるようで、そういったトレンドが米国にも来たという印象だった。 結局「数店の喫茶店チェーンの展開に投資はできない」という判断で出資は断ったが、もし出資していたら今頃どうだったか?スターバックスが日本に上陸した時はその記憶を思い出して感慨深かった。
ユニオンレイクからスペースニードルを臨む。スペースニードルはシアトル万博のシンボルで万博跡地は遊園地のようになっていた。スペースニードルから街の中心地にモノレールが走っているがそちらの終着駅のすぐ近くに私の通うオフィスがあった。

シアトルの代表的な景色。スペースニードルとマウントレーニア。

2020年4月19日日曜日

26 アムステルダム駐在時代 その6

26 アムステルダム駐在時代 その6
 アムステルダム短期駐在中の二つのミッションは何とかクロージングの目途が立ってきた。一つは前駐在員に訴えられた訴訟問題、もう一つは当社が保有する不動産(事務所兼駐在員事務所長社宅)の売却。30歳代の生意気な頃で、本社の役員の方針にも反論して電話越しに結構議論したりしていた。
 その一つに不動産の売却価格の話があり、売却査定価格を調査したところ本社が想定していた価格よりかなり安かった為、本社では不動産価格がもう少し上がるまで売却をサスペンドしようという事になった。私はオランダの不動産市況を調べていたところ、不動産価格暴落の兆しあり、売るなら今がチャンスと強く本社の役員に訴えた。本社でもメインバンクにも調査依頼したところ銀行のオランダ法人から「不動産市況の先行き暗い。売却するなら今」というアドバイスもあり、方針変わって売却した。その後不動産価格は下がり、結局思えば結構高く売却できた結果となった。
 
 その頃、恐ろしい事件が起きた。ロシアではちょうど旧ソ連が崩壊し、社会もかなり混乱した時代だった。当社はロシアとの水産物輸出の合弁会社があり、モスクワの本社とアムステルダムからもやりとりしていた。一度はモスクワにも行かねばと思いながらもオランダや水産物買付けの仕事が忙しく、モスクワ出張も伸び伸びになっていた。
 ある日本本社とモスクワ事務所から緊急連絡があり、その合弁会社の社長と部長が暗殺されたとの事、それもシェレメチェボ空港からオフィスに戻る路上で襲撃され、機関銃の乱射の上、火炎瓶を投げ込まれるという、かなり荒っぽいやり方でマフィアの犯行との事だった。その後ロシアから新聞を取り寄せて写真入りの記事を見たが、車は悲惨に焼けこげ、残った部分にも機関銃の穴があり、その残虐ぶりを感じて背筋がぞっとした。
 なぜなら少しでも余裕があったらモスクワに出張して彼らと会おうと思っていたので、彼らと一緒に居たら巻き添えを食う可能性も十分考えられた。もう一つは殺された部長は私とも懇意で何度かプライベートでも食事してたので同僚を失ったショックも強かった。
 当時旧ソ連の崩壊直後で経済は混乱して、外貨が極端に不足していたが、そんな中で水産物輸出は手っ取り早く外貨を稼げる少ないビジネスの一つであった。この水産ビジネスに多くの利権が絡んで、さらにマフィアもその利権に絡んでいた。マフィアが何らかの要求を突きつけ、当社の合弁がそれを突き返したのが原因と聞かされた。
 私はサハリン駐在時代にロシア極東のほとんどを回り、各地の漁業者と関係を築いてきたので、また日本に帰ったらロシア水産物の仕事をしたいと思っていたが、この事件をきっかけにすっかりその気を失った。ロシア合弁会社の二人を失い、この会社の運営も困難となり、実際ビジネスにも支障が出てきたし、何よりも同僚・友人を失ったショックとちょうど結婚して子供も生まれたので、命の危険を晒してまでもロシアとの仕事をしたいとは思わなくなった。


 ノルウェー水産の町 AALESUND。何度ここに行ったことか…
 ノルウェーニシン。脂がのっていておいしい。主に輸入したら北海道に販売していた

 ノルウェーの道。フィヨルド沿いに道が走っていて景色が綺麗だった
 アイスランドを空から見る景色はいつも神秘的