2020年4月27日月曜日

27 米国への移駐 

27 米国への移駐
 アムステルダムに短期駐在したまま、米国転勤の辞令が出て、私はなんとなく予感していたので落ち着いていたが、妻は長期に夫が不在な状況が続いた中で、いきなり米国転勤という事でかなり戸惑っていた様だった。
 駐在地はワシントン州シアトル。米国民へのアンケートで「住みたい街TOP10」に必ずランクインする都市で、米国でも住みやすい街と言われていた。
 
 主な産業はウエハウザー等を代表する木材製材業、ボーイングの本社と工場がある事から航空機産業、アラスカの後方支援基地としての造船・航海機器・水産業、そしてマイクロソフトの本社がある事からその関連企業が集まっていた。またコーヒーのスターバックス、大手ホールセールのコストコの本社もあり新しいトレンドを取り入れている都市として経済的にも恵まれており活気があった。今はシアトルといえばアマゾンの本社がある事で有名だがその頃はまだアマゾンという企業の名前は知られてなかった。

 スターバックスと言えば面白い思い出がある。同社の創業者はハワード・シュルツという1953年生まれの実業家だが、彼はシアトルに1号店を開いた。パイクプレイスマーケットという港近くの食料市場の入り口の目の前にあり、今でも観光の名所となっている。そのシュワルツ氏が当社のシアトル事務所にコンタクトし、出資を求めてきた。1980年後半だから同氏がまだ30代前半、まだ若者の部類で当時のシアトル支店長は「喫茶店をいくつか経営している若者が金出してくれってコンタクトしてきた」とちょうど出張していた私に話してくれた。まあ一応どんな店か行ってみようと支店長と一緒にその1号店に行ったみたが、当時は今のようにデザインやコンセプトもおしゃれに統一されておらず、ただの喫茶店という感じだった。でもコーヒーは美味しかった。当時のアメリカのコーヒーは豆の種類は安ければ何でもいい、何杯でもお替り自由という飲み物だったので、豆も厳選してお替り無しで結構高いというので、ついにアメリカ人もコーヒーに拘る時代が来たかと思った。その頃日本はコーヒーブームでコーヒー専門店で豆もブルーマウンテンやマンデリンと選んで、コーヒーを淹れるのもフィルター、サイフォン、水出しと選べるようで、そういったトレンドが米国にも来たという印象だった。 結局「数店の喫茶店チェーンの展開に投資はできない」という判断で出資は断ったが、もし出資していたら今頃どうだったか?スターバックスが日本に上陸した時はその記憶を思い出して感慨深かった。
ユニオンレイクからスペースニードルを臨む。スペースニードルはシアトル万博のシンボルで万博跡地は遊園地のようになっていた。スペースニードルから街の中心地にモノレールが走っているがそちらの終着駅のすぐ近くに私の通うオフィスがあった。

シアトルの代表的な景色。スペースニードルとマウントレーニア。

2020年4月19日日曜日

26 アムステルダム駐在時代 その6

26 アムステルダム駐在時代 その6
 アムステルダム短期駐在中の二つのミッションは何とかクロージングの目途が立ってきた。一つは前駐在員に訴えられた訴訟問題、もう一つは当社が保有する不動産(事務所兼駐在員事務所長社宅)の売却。30歳代の生意気な頃で、本社の役員の方針にも反論して電話越しに結構議論したりしていた。
 その一つに不動産の売却価格の話があり、売却査定価格を調査したところ本社が想定していた価格よりかなり安かった為、本社では不動産価格がもう少し上がるまで売却をサスペンドしようという事になった。私はオランダの不動産市況を調べていたところ、不動産価格暴落の兆しあり、売るなら今がチャンスと強く本社の役員に訴えた。本社でもメインバンクにも調査依頼したところ銀行のオランダ法人から「不動産市況の先行き暗い。売却するなら今」というアドバイスもあり、方針変わって売却した。その後不動産価格は下がり、結局思えば結構高く売却できた結果となった。
 
 その頃、恐ろしい事件が起きた。ロシアではちょうど旧ソ連が崩壊し、社会もかなり混乱した時代だった。当社はロシアとの水産物輸出の合弁会社があり、モスクワの本社とアムステルダムからもやりとりしていた。一度はモスクワにも行かねばと思いながらもオランダや水産物買付けの仕事が忙しく、モスクワ出張も伸び伸びになっていた。
 ある日本本社とモスクワ事務所から緊急連絡があり、その合弁会社の社長と部長が暗殺されたとの事、それもシェレメチェボ空港からオフィスに戻る路上で襲撃され、機関銃の乱射の上、火炎瓶を投げ込まれるという、かなり荒っぽいやり方でマフィアの犯行との事だった。その後ロシアから新聞を取り寄せて写真入りの記事を見たが、車は悲惨に焼けこげ、残った部分にも機関銃の穴があり、その残虐ぶりを感じて背筋がぞっとした。
 なぜなら少しでも余裕があったらモスクワに出張して彼らと会おうと思っていたので、彼らと一緒に居たら巻き添えを食う可能性も十分考えられた。もう一つは殺された部長は私とも懇意で何度かプライベートでも食事してたので同僚を失ったショックも強かった。
 当時旧ソ連の崩壊直後で経済は混乱して、外貨が極端に不足していたが、そんな中で水産物輸出は手っ取り早く外貨を稼げる少ないビジネスの一つであった。この水産ビジネスに多くの利権が絡んで、さらにマフィアもその利権に絡んでいた。マフィアが何らかの要求を突きつけ、当社の合弁がそれを突き返したのが原因と聞かされた。
 私はサハリン駐在時代にロシア極東のほとんどを回り、各地の漁業者と関係を築いてきたので、また日本に帰ったらロシア水産物の仕事をしたいと思っていたが、この事件をきっかけにすっかりその気を失った。ロシア合弁会社の二人を失い、この会社の運営も困難となり、実際ビジネスにも支障が出てきたし、何よりも同僚・友人を失ったショックとちょうど結婚して子供も生まれたので、命の危険を晒してまでもロシアとの仕事をしたいとは思わなくなった。


 ノルウェー水産の町 AALESUND。何度ここに行ったことか…
 ノルウェーニシン。脂がのっていておいしい。主に輸入したら北海道に販売していた

 ノルウェーの道。フィヨルド沿いに道が走っていて景色が綺麗だった
 アイスランドを空から見る景色はいつも神秘的

2020年4月9日木曜日

25 アムステルダム駐在時代 その5

25 アムステルダム駐在時代 その5
今回は副題「アイスランド特集」
今まで海外55か国訪問した中で「どの国が良かったですか?」と聞かれる事が多いのですが、その国特有の良さがあるので、なかなか「この国!」と一つ選べないが、インスタ映えするという切り口であればアイスランドをお勧めします。
 映画撮影で月面ロケをする時はアイスランドで行うと言われるほど何もない(笑)その「無」の景色がいいのです。
 そしてアイスランドと言われるように一面アイス、氷の世界です。日本はアイスランドから、シシャモ、シシャモ卵、赤魚、カラスガレイ、ニシン、マダラ、アンコウ、甘えびを輸入しており、アイスランドは一大水産輸出国。そもそも当時勤務していた東京丸一商事がアイスランドでシシャモを見つけて初めて輸入、それ以来シシャモ輸入ではリーダー的存在で輸入量も一番多かった。レイキャビック大学卒業し、アイスランド語ぺらぺらの謎の先輩社員もいた。

 冷戦終結のレーガン・ゴルバチョフ会談が行われたレイキャビックのホワイトハウス。テロを防ぐ為、こういったIsolateした場所を選んだ。

 私が運転していた道路。こんな道を走るのだがスリップして事故しても助けがなかなか来なさそう、凍死しそうなので慎重に運転した。
 ケフラビック国際空港。レイキャビックの空港はどちらかと言うと国内線がメインでこちらが国際空港。氷原の中を走っていて空港が遠くに見えるとホッとする。月面ロケはこの周辺で行われる。


 漁船が港から出ていく。きりっとした寒さが心地よい

 アイスランドは捕鯨大国でもある。ここで食べるクジラ刺しは美味しい~今も食べれるのだろうか?
粕漬けや西京漬けで売られている赤魚はコレ!

レイキャビックを見渡す丘からの景色

 元大学スキー部ですから暇な時はスキーへ。スキー場以外は何もない世界
 どこがコース?結局、どこ滑ってもいい感じ。
 ナイター。
スキーのコースから麓のベースを眺めて…
 観光地として有名なブルーラグーン。湖全体が温泉。浮きの外に出ると足が立たないから要注意。足の立たない温泉で立ち泳ぎするのは溺れそうで怖い。

2020年4月8日水曜日

24 アムステルダム駐在時代 その4

24 アムステルダム駐在時代 その4
 今だからこそLGBTとしてレズビアン・ゲイ・レズビアン・トランスジェンダーは日本でも社会に広く知られるようになったが、1994-95年の駐在時代の日本人の私にとっては、LGBTのメッカともいえるアムステルダムのそういった人達が大勢いる状況、環境は新鮮で驚きでもあった。
 アムステルダムの事務所のあったライツェ広場のすぐ近くにフォンデル公園があるのだが、その公園は大勢のLGBTのカップルがいつも散歩していて、一人で歩いている私は「異端」とすら思えるぐらいだった。ほんとに色んな人々がいて、色々なファッションをしていた。ヨーロッパは自由主義的な社会ではあるが、それでも地方の社会は非常に保守的でLGBTといった人達にとっては息苦しい社会である。そういう人達が息苦しい社会から脱出して皆アムステルダムに集まるので、彼らにとってのメッカという感じ。
 ただ週末に出張移動していたので、週末の夜をアムステルダムを過ごす事は少なく、彼らと交流する機会はあまり無かった。取引先ではそういう方々も多かったが…

 水産物の買付けの出張はやはり北欧が多かったが、時々英国にも出張に行った。REGUSのシェアオフィスはトラファルガー広場の前にあり、デスクワークはそこでおこなった。
 当時の私はクラシカル、トラッドのファッションが好きだったので、「アクアスキュータムのコート」とかを好んできていたし、そういった好きなブランドのロンドンの本店には足を運んだ。また母親が洋食器など好きだったので、お土産にはウエッジウッドとかを買っていった。
 駐在していた時にはもう既に結婚していたが、1990年結婚する時の婚約指輪はロンドンダイヤモンドセンターで購入した。店の入り口には門番がおり、購入の希望を伝えると中に案内され、個室に通される。サッチャー首相のような品のある女性が30分ぐらいダイヤについて、例えばダイヤの価値は4Cの要素があるといったレクチャーをしてくれ、その後予算とどういったダイヤが欲しいか聞いて適当なダイヤを選んでくれた。その後それを指輪にして数日後渡して貰った。何しろ結構な金額を前払いするので、それなりに信頼したところで買いたかったし、ロンドンのダイヤ販売では有名なロンドンダイヤモンドセンターの鑑定書なら安心できると思った。
 その時、ダイヤモンドセンターで出された紅茶が美味しっかったのが今でも記憶に残っています。
記憶はおぼろげだがデンマークかスウェーデンの王室の近衛兵

オランダでの数の子(ニシンの卵)の加工。腹から出したばかりの卵はこんな感じ

 数の子の腹だし作業。数の子作業専用包丁で卵に傷つけないように腹だし。そういえば数の子作業専用包丁を40-50丁をトランク預けて飛行機に乗ったが、出発前にセキュリティーに呼び出され事情聴取を受けた。ちょうど数の子腹だし作業の作業指示書の英文があり、これを見せて説明し解放された。
 ノルウェーの大手水産会社トランバーグ社の若社長トランバーグ氏と

 アクアスキュータム本店。男はやっぱりアクアスキュータムのコート…

 婚約指輪を買ったロンドンダイヤモンドセンター。ここで買い物をしたのは一度きりです(笑)
 ウエッジウッド本店。母親に食器のお土産購入

かみさんにはチェックの柄のお土産購入。ベイシテイ―ローラーズとかチェッカーズとか昔はチェック柄流行りでした。

2020年4月5日日曜日

23 アムステルダム駐在時代 その3

23 アムステルダム駐在時代 その3
 ノルウェーの養殖サーモンについてはノルウェー自身も始めたばかりで、なんとか海外市場を広める為にノルウェー側も売り込みに積極的で私もそれに応えて、築地の取引先に一生懸命売り込んだ。でも反応は冷たく、「色がオレンジで美味しそうでない」「脂が強すぎる」「日本人がサケのイメージを持つ紅鮭のような味ではない」等あれこれネガティブな問題点を挙げられたが、やはり大きな理由は「日本はサケを生で食べない=刺身・寿司だねの需要が無い」という事であった。確かに天然サケには寄生虫がいて生で食べるのはルイベ等一旦冷凍してから食べる以外は危険とされていたし、そもそも業界人はサケを生で食べる発想が無かった。結局、私の現役世代では日の目を見なかった。その後ノルウェーサーモンの市場が爆発的に広がったのは、やはり「回転ずしブーム」とそれを支える子供達のおかげだった。「回転ずし」はそもそも寿司業界では異端児であんなものが流行るとは当初思われておらず、一方回転ずし業界は安くて美味しいネタなら何でも載せて売っていく方針で、魚に限らず焼肉、ハンバーグ、イベリコ焼豚も寿司ネタにしていった。また回転ずしブームを支える子供世代は、「元来サケは生で食べない」「寿司ネタは旬の魚」といった既存の概念は無く、白紙の状態から美味しいもの、自分の好きな物をオーダーしていった。その結果、脂が乗って美味しいノルウェーサーモンは子供達から圧倒的な支持を得ていった訳である。今でも回転ずしでサーモンを食べると当時の記憶が蘇り、当時ダメ出しした業界人の面々に今会ってみたいとと思う。

 オランダ駐在期間は短かったが、楽しかったし刺激的だった。まだ日本人が経済的にそれほど簡単に海外旅行に行ける時代では無く、特にヨーロッパは航空運賃もホテル代も高く、それなりのお金持ちしか訪れる事はできなかった。私が最初にヨーロッパ出張に行ったときは、まだソ連領空内に飛行機が飛べず、アンカレッジ経由でアラスカで一泊して飛んで行った。結構取引先も偉い方々も視察等を理由に出張し、一方でヨーロッパ観光も期待してたので、どの都市に行っても顧客アテンド対応ができるように一人でもいろいろ観光地は観て回った。

私の好きな街、ノルウェーのベルゲン。ここからゲイランガーフィヨルドへの観光クルーズ船がでる。
デンマークのお城。確かハムレットの舞台となった城だったような…シェイクスピアの石像があった。

仕事柄、魚屋があれば必ずチェック、どんな魚が売ってるか、値段はいくらか、どんな加工がされているか、興味津々。知らない魚は買って試食していた。

確かデンマーク。北欧も街は似ているのでどこだか思い出せない。覚えているのは、このカラフルな防水コートはノルウェーのお気にいりのブランドのもので当時の写真ではいつもこれを着ていた。ヘリ―ハンセンの廉価版ブランドでブランド名は忘れた。

週末は乗馬ツアー。これはアイスランドレイキャビックでの乗馬ツアー。お弁当を持って1日で山々を回るツアーで、馬をで道なき草原を歩くのは楽しかったし、ツアーのメンバーとも仲良くなれた。テントと食料を担いで行く1週間のツアーもありましたが、さすがにこれには参加できず。リタイヤしたら参加してみるかな。


2020年4月4日土曜日

22 アムステルダム駐在時代 その2

22 アムステルダム駐在時代 その2

いやあ、週末の外出禁止。参加予定のパーティも友人との食事もすべてキャンセル…という事でブログの更新でもするか…昔の記憶もどんどん薄れていくからね。

 入社、水産部に配属されてからずっと北方魚の担当でした。商品担当とはすなわち地域担当でもあり、北方魚で言うと青物、サケマス、カニ、魚卵といった商品の担当で地域で言えば、欧州・ロシア極東・アラスカ・東カナダの担当でもあります。
 アムステルダム駐在といってもオランダにずっといる訳ではなくアイスランド・ノルウェー・デンマーク・フィンランド・エストニア・ロシア・フランス・スペインに週末毎に移動していました。何故かというとDiscountチケットは「往復1週間以上、移動は週末」というが一番安いというのが理由でした。
 アムステルダムに駐在していた頃で年間1万5千トン水産物を買付けしてました。一番多いのがノルウェーサバで約6千トン、アイスランドシシャモ・シシャモ卵で4千トン、オランダ・アイルランドアジで3千トン、その他が残りの魚種。その頃ずっとノルウェーサーモンの日本への売り込みをしていたが「そもそもサケは刺身・寿司ネタにしない。色も悪い」等築地の取引先からは評判悪く、取り扱いを断念。他の業界で言えば「インターネットなんか普及するわけがない」と言われた時代があったようなものですね。この辺の話は後日。

 サバは年間6千トン買付けしてましたが、すべてのロット(一回の漁獲)について検品し、大抵は試食していました。特にサバは身がゼリー状になっている物があり、これはほぼ価値がないので一番気をつけていたし、それ以外も鮮度・打ち身・身色などいろいろチェックポイントはあり。



サバだとこんな感じに2枚におろして検品。その後にしめさば、塩サバ、サバみそ等に調理して試食。もうサバのシーズンは毎日サバです。


アジだとこんな感じに開きにして検品。開き方が上手い?それはアジ開き専門の包丁で開いているのと、アジの開き方の研修を沼津の取引先で受けて勉強したからです。

 アジはもちろん日本では開き用途が多いのですが、オランダの魚市場で日本から来たアジの開き加工屋さんと一緒に買付けするのです。日本の会社なので私は買参権はないので、仲買人と組んでオークションで競り落とします。
 ライデンやスケベニンゲン(名前が面白い!)などの港の魚市場に朝早く行って、生のアジを検品、高く買ってくれる日本のバイヤーの特権で特別に何匹がサンプルを貰って、大急ぎで開いて寄生虫がいないか、脂は乗っているかなどをチェック、買付けするかどうか検討します。
 ただオランダの競りは難しい。日本は下からの競り上がり方式なので、仲買人に「もっと上げていいぞ!」「ここは降りよう!」とか指示が出しやすい。しかしオランダの競りは上からの競り下がり方式なので、価格がだんだん下がってきて手を挙げたらそこで決まり。つまり市場からしたら時間の節約にはなるが、こちらの意思通りに競り落とすのが難しい。結構スリリングで楽しかったが、日本のライバル商社に競り落とされると悔しかった。
商社マンとは言え、スーツよりは作業着を着て作業をしている時間の方が長かった。まあ東京水産大学出身で魚の研究をしていたから、本業のようで楽しかった。