第二外国語でロシア語を勉強しているうちに、なんとなくロシア語が出来るような気がしてきた。
と言うか、ロシア語を勉強する事が楽しい、もっと勉強したいと思う様になっていた。
そこで都内でロシア語を専門に教える学校を探した。当時二つあって一つはニコライ学院、一つは日ソ学院(現・東京ロシア語学院)で結局日ソ協会の本部に併設する日ソ学院に行く事にした。
何しろ当時英語が苦手で語学コンプレックスを持っていて、今さら中高6年間の遅れをキャッチアップするのも大変だし、できる人は大学でどんどんできるようになるのでその差は埋まらないと考えた。でも中高でロシア語を勉強している人はいないので、この大学でのスタート地点は一緒だから、ここで頑張ればロシア語では他をリードできるかも知れないと思った。
大学では水産資源管理学講座という研究室に入り、これは水産資源の管理を研究する、例えば資源保護の為には今年のサケの漁獲枠は何トンにすべきかといった判断の科学的な裏付けを研究する学問を勉強していた。でも海は国境を越えて繋がっているので自国だけで漁獲制限を設けても意味がなく、やはり隣国ロシアとの協調なくしては意味がないものであった。だからロシアの漁業省や水産研究機関とはこの水産資源管理という面では協力は不可欠なので、何らかの形でロシア語は自分の専門分野にも関係ありそうに感じた。実際、就職でいろいろ話を聞いてみると、大学を出て公務員になって水産庁へ→駐ロ日本大使館へ派遣→日ソ漁業交渉の交渉担当に、といったキャリアの人もおり、きっとロシア語は今の研究や将来のキャリアにも役立ちそうだと思った。
日ソ学院本科2部(夜間部)は2年制で夕方から毎日授業があった。一応ロシア語の世界では名の知れた専門学校だったので、講座という事でなく卒業証明書も貰える本科に行った。
その当時はロシア語をやろうという人は社会主義・共産主義に傾倒している人か、トルストイやドストエフスキーといったロシア文学をこよなく愛する人のどちらかで、私のようにどちらにも属さない人は少なかった。
一番鮮烈に記憶に残っているのはロシア人の男と女の先生で、勉強は超絶に厳しかった。宿題も山ほど出て、「大学時代は何を勉強していた?」と聞かれれば「半分は専門分野、半分はロシア語」というぐらいだった。何しろ授業というより訓練に近いハードさ。
今思うに二人ともKGBのメンバーか少なくともKGBで訓練を受けた人たちで、そんな厳しい授業もKGBでは当たり前、言わばKGB流特訓授業だったのかも知れない。
なぜならその当時は米ソが世界を二分している時代で、西側の自由主義世界にあこがれて多くの人たちが東側から亡命していた時代、ベルリンには東西ドイツを断絶する壁があり、その壁を乗り越えて亡命しようとして射殺されたりしていた時代、自由主義陣営の主要国に駐在しているロシア人はすべて国からの派遣であり、亡命なんぞしない思想的にもエリートしか来れない筈だった。
もし思想的にもぶれるようだったら簡単に日本で亡命してしまうし、そんな人材を日本に派遣する訳はなかった。
そんな厳しい授業の中にあっても、どんなにソ連が素晴らしい国であるかの話もよく聞かされたし、映画も見せられた。「いろいろな宗教、いろいろな民族はいてもお互いを理解、尊重し、力を合わせて理想の国をつくる」といったプロパガンダには、まだピュアな自分は多少なりとも洗脳されたし、今のウクライナ・ロシアの紛争なんか見ると、「あの当時のソ連の理想」を一度振り返って欲しいと思う。
授業の初めから、結構社会主義的用語は勉強させられ、今でも「ソビエト共産党中央執行部書記長」みたいな単語もスラスラ出てくるので、それを言うと今のロシアの若者は笑う。
ロシア語を広める事は社会主義を広める事でもあり、ソ連ファンを増やす事でもあり、そういう意味では完全に私は思惑通りのになった生徒であった。
時にはソ連大使館での映画の夕べやパーテイーに呼ばれ、その妙な一体感が何となく心地よかった。
そんな厳しいロシア人教師の指導の下でもモチベーションは維持していたので、しっかり授業にもついていった。
日ソ学院にはあのゴルバチョフやエリツイン時代に同時通訳で活躍され、エッセイストとしても有名な米原万理さんもおられて、直接授業はなかったけど、学園祭のロシア語劇の指導などしてもらった。ちょっと妖艶な雰囲気で、艶っぽくて、でも男っぽい面もあって面白い方だった。
先生も生徒もロシア語をやる人はちょっと「普通でない」ところがあって面白かった。
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