2018年5月29日火曜日

6.入社試験

 ソ連短期語学留学を終え、「自分はロシア語ができる!」という妙な自信がついた。何しろ英語はまるっきりダメというコンプレックスにずっと悩まされていたので、短期留学で最上級クラスにクラス分けされた事は、「やればできる」という事と、「今までの英語の勉強方法は間違っていたのではないか(決して頭が悪いという訳ではなく)」と目から鱗という感じで、実りの多い短期留学だった。
 
 とは言え、すぐに英語ができる様になった訳ではなく、相変わらず英語の方は低迷状態から脱せずにいた。そんな状態の中で、就職シーズンに突入する事になった。
 自分の研究は水産資源保護と漁業を両立させるべく資源量を減らさない適正な漁獲量を推定するといったものだったので、公務員でもなって水産庁で漁獲量管理の仕事や隣国との漁業交渉や漁業取締りなどをする仕事をしたいと当初は思っていた。
 一方でちょうどその頃、水産物の開発輸入ブームで、総合商社・専門商社が入り混じって、海外水産物の開発輸入を競いあっている時代で、現場のオペレーションの為に自分の大学からも多くの学生アルバイトが雇われ、アラスカや地中海など海外の現場に送りまれていた。現場は漁獲シーズン中はほぼ二十四時間稼動なので、かなりの体力仕事でもあり、現場を指揮する商社マンの下でサポートするテクニシャン(技術指導員)が現場に必要だった。
 残念ながらロシア語短期留学で、海外に行くようなアルバイトはできなかったが、海外でアルバイトをして、そのお金で海外を放浪してから帰国する先輩や同級生を見て、羨ましく思うと同時に、世界を飛び回って水産資源を開発輸入する商社マンは格好よく思えた。
 海が好きで東京海洋大学に入学したが、自分の研究テーマではあまり野外フィールドワークは無く、主に研究室内で理論的な研究する事が多かった。また公務員も海外の海を飛び回る仕事とは程遠く感じられ、公務員より商社への就職したい気持ちが強くなった。
 漁業監督官は漁業取締船に乗って、違反操業の取り締まりをする現場仕事で、ロシア語も活用できる職業ではあるものの、せっかく留学でロシア人との友情を体験したのに、どうしても敵対する関係にならざるを得ないのは嫌だった。
 ところが商社に就職するには、まず英語ができないと採用してもらえない。これは困った。でもロシア語はできる。そこで入社試験にロシア語がある会社を探した。
 大学のOBも入社実績があり、海外から食品を開発輸入している食品専門商社で、ソ連や中国等の共産圏にも強い東京丸一商事が中国語とロシア語で入社試験をしている事を知った。
 大学のOB訪問をしたその先輩はワインの買付け担当で、ブルゴーニュやモーゼルに出張して、現場のワイナリーを回って買付けしているといった様な話をしてくれた。エキサイテイングな仕事に感じられた。ロシア語のエキスパートも会社に何人も居るという事で、自分の成長にも繋がる気がして、結局この会社の入社試験を受ける事にした。
 実際はロシア語だけでなく英語と一般常識の試験もあったが、ロシア語のお陰と面接試験もいいムードで終わり、無事に採用通知を貰った。ロシア語の試験のある会社は他に無かったので、迷わず入社を決めた。
 就職が首尾よく決まり、気持ちも軽くなってところで、苦手な英語を克服すべく勉強する時間もできたし、ロシアや東欧のワインや高級食材を扱うグループ会社で学生アルバイトの募集があり、就職前にそこの会社で働き始め、充実した最後の学生生活だった。
                    
                    カムチャッカ沖とアラスカ沖での操業
 


 

2018年5月13日日曜日

5.ロシアでの初デート

 当時のソ連は社会主義国で基本的には自由主義国から来た外国人と普通のロシア人との接触は禁じられていた。法律的にどういう違法行為に当たるかわからないが、それにしても社会主義のロシア社会がそれを許さなかった。外国人と直接コンタクトを取ろうとする輩は、良からぬ事を考えていると見做されるからである。
 確かにそういう事もあった。外国人か特別の許可を得た者(=つまり特権階級)しか出入りできない外貨ショップ「ベリョースカ」というのがあるのだが、英語表記もあり、外貨が使え商品も手にとって見れるので、我々にとっては買物しやすいお店なので滞在中は何回か買物に行った。
 普通のソ連のお店は国営で商品はカウンターの向こうにあり、自由に手にとって見れず、買う時はそのカウンターに居る店員から価格のメモを貰い、一旦キャッシャーに行ってお金を払い、その領収証を持ってその商品のカウンターに商品を貰いに行くというかなり面倒なプロセスがある。もちろんお金はルーブル支払いのみ。
 だから多少高くてもついつい外貨ショップに行ってしまうのだが、外貨ショップの前には、何らかの方法によって外貨は持っているが許可がなくてお店に入れない輩がウロウロしていて、外貨ショップに入ろうとする外国人に買物のお願いをするに遭遇する。外貨ショップでしか売っていない商品も多いからである。なんか悪事に加担するようで、トラブルに巻き込まれないか心配もあって大抵は無視していた。しかしある時、真面目そうな大学生に外貨ショップの書店に行って、これこれの本を買ってくれないかと頼まれ、外貨を渡された。出版物=思想なので、これは結構危険な行為なのだが、英語も堪能で知性的な彼に興味を持ち、彼の頼みを受けた。英語の本で発禁本というような過激な本という訳でもなく、おそらくちょっと自由主義的思想がベースにある小説や西側の実態について書いてある本といった程度である。
 そんな事から同じ年代ぐらいの彼と仲良くなり、人気の少ない、あまり目立たない場所でいろいろ話をするようになった。英語が堪能で、世界を知りたいという知識欲もあり、現在のソビエト連邦政府を痛烈に批判する反体制派の学生だった。いろいろのソ連の現状を話してもらい、とても興味深かった。私にとっては最初の普通のロシア人との個人的な関係だった。

 一方大手を振って仲良くしてくれる同年代の若者もいた。彼らは言わば特権階級のバックをもった学生達である。我々がレニングラードに到着すると現地の少年少女や学生達に歓迎の催しを開いて貰った。そういったイベントで外国人の接する機会を持てるのは、15歳以下であれば、ピオネール(共産党少年部)、15歳以上であればコムソモールのメンバーだけである。共産党はコムソモールを指導し、コムソモールはピオネールを指導する。ボーイスカウトのようでもあるが、やはりしっかりした思想教育も行われている。コムソモールの幹部は将来共産党本部でも幹部になれる道が開かれている。 
 地元のコムソモールによって我々日本人の学生達を歓迎するパーテイーが行われ、そこでリーダー格の男子大学生と、金髪の美しい、端正な顔立ちの女子大学生と仲良くなった。
 その男子大学生には放課後の自由時間にいろいろな所に連れて行ってもらった。というのも街の移動は通常バスなのだが、今のような親切な案内図はまったく無く、どのバスがどこに行くかまったく分らず、外国人はバスはなかなか使えない。彼は地元もバス路線は熟知していて、どこ行くにもさっとバスを使って連れて行ってくれた。先の反体制の学生とは違い、まったく人の目は気にせず、どんな場所での堂々と立ち振る舞い、外国人を案内するのをむしろ誇りにしてるようにも感じられた。彼が親切なのは私に対してだけでなく、例えば老人が重い荷物を持ってバスに乗ろうとすれば、さっと手伝って荷物を持ったり、社会に貢献する若者という感じの態度であった。おそらくコムソモールのバッチか何かをつけていたに違いない。ソ連社会のエリート然としていた。

 一方美しい女子学生ともパーテイーで知り合った際に、彼女がレニングラード市内を案内してくれるというので、二人で会う約束をした。彼女も社会主義下でエリート学生という雰囲気だったし、きっと親が共産党幹部か何かしているいい家のお嬢様というようにも感じられた。
 最初に二人で会ったとき、彼女は真っ青なワンピースを着ていた。とても似合っていたし、そのドレスの青さがなんか眩しい感じがした。当時のソ連は国家による計画経済で、生産も計画生産だったので、服もあれこれいろんなデザインの少量多品種は無駄なので、単一色・単一デザインで誰でもどんなシチュエーションでも着れる服が大量に作られていた。だから単色の同一デザインのワンピースは一般的だった。
 まあロシア語は上級クラスだったとは言え、まだまだ女性に対してはすべてが初心者のうぶな大学生だったので、ただ二人でレニングラードの街を散歩したり、たまにはカフェでお茶を飲んだりしながら話しただけだった。
 でも夏のレニングラードは白夜で夜遅くなっても暗くならず、もわっと明るく、またすぐ前も見えなくなるような霧に街全体が包まれる事もよくあり、散歩している最中に霧に包まれると音も霧に吸収されるのか、二人の回りが静かになり、その空間に自分達二人しかいないような気持ちにもなった。最後別れる時も霧の日で、彼女の去っていく姿を追っていくと霧の中にすっと消えていった。
 ただやはりコムソモールのメンバーなので、監視とまでは言わないが、私の一緒の時の行動は地域の党本部やコムソモール本部には報告していたのではないかと思う。
 社会主義国ソ連邦の壁が高すぎて恋愛とかそういった意識はまったく持てずにいた。
(以下、写真と今までのお話とはまったく関係ありません。単なるイメージ写真です)

2018年5月11日金曜日

4.レニングラードでの学生生活

 その夏期ロシア語講座ツアーに参加したメンバーは約40人ぐらいで、殆どはいろいろな大学のロシア語学科、露文科の大学生や大学院生だった。ロシア語学科でもない大学生は私ぐらいで、「何で参加したの?」と不思議がられてもいた。皆、偏差値で言えば結構レベルの高い外語大や有名私大の文学部の学生で、「英語まったく苦手」の私からすれば、外国語能力という面ではレベル的にも雲泥の差に感じられ、授業が開始されるまでは、こんな学生達と一緒に同じ授業を受けて、ついていけるのだろうか不安だった。
 ところが授業初日、ロシア語の実力を測る筆記と面接の試験が終わり、クラス分けが発表されて驚いた。私は実力別で4クラスに分けらた中で、一番上のクラスだったのである。それはずっと英語がダメで、外国語コンプレックスを持っていた自分にとっては超驚きの出来事だった。ひとつ下、二つ下のクラスにもそうそうたる大学のロシア語学科、露文科の学生が振り分けられていた。
 この歳になると判るが、いくら有名大学とはいえロシア語の学習歴3~4年といえば、よほどしっかり集中して勉強しなければ、それほど身につくものではないし、語彙力、文法の知識は皆より劣るも、私の話すロシア語がとてもロシア語らしく、面接試験での振る舞いもロシア語慣れした雰囲気があったのだと思う。ひとえにネイティブのロシア人(KGB要員?)の先生方の特訓のおかげだった。
 自分が一番上のクラスになった事でさらに学習意欲、モチベーションがアップして、授業でも積極的に先生とコミュニケーションを取り、出された宿題もきっちりやった。確かに他の学生達を見ると机の上ではロシア語の勉強はしているのだろうけど、ロシア人とのコミュニケーション慣れしていない様だった。大学の第二外国語のロシア人の先生がまず最初に言った「目をしっかり見て話せ」というコミュニケーションを重視する教えはここでも役にたった。
 そもそもロシア語の授業そのものも日本人にとってはかなり馴染みの無い形式、内容だった。例えば一番面白かったのは、課題でプーシキンの詩を暗記して、それを皆の前で発表するというもの。それも詩の内容をよく理解した上で、抑揚をつけて、大きな声で詠わなくてはならない。大抵最初は「声が小さい」「抑揚が足りない」「発声が違う(?)」「その抑揚は場所が違う」「(その詠み方では)詩の意味が分ってない」と容赦ないダメだしが出され、まるで演出家蜷川幸雄にダメだしを受ける新劇俳優のよう・・・
 ある程度、先生が満足できるレベルになると外に連れ出され、あの有名な「夏の庭園」の広場の壇上で、公園を散歩する民衆の前で一人づつプーシキンの詩を詠わされる。詩を詠う事自身が不慣れな上に、ロシア語だし、プーシキンの詩が何たるや理解している訳でもなし、また公衆の面前で詠う事の緊張と恥ずかしさで、頭はぐるぐる回って混乱してしまう。
 でもまあその頃から持ち前のくそ度胸でそういうイベントも喜んで楽しく、また「それっぽく」こなす事で、先生からも「こいつはデキる」と過大評価して頂いた。
サンクトペテルブルグ最大の観光名所で世界遺産のエルミタージュ美術館


ネフスキー大通りにある大型書店ドーム・クニーギ。1983年留学時もネフスキー通りを散歩した。
サンクトのキーロフ劇場。留学時はここで本場のバレエを見ました。

2018年5月8日火曜日

3.初めてのソビエト連邦、短期留学へ

ロシア語を勉強しているうちに、自然にソ連邦に行ってみたいと思うようになりました。
アルバイトをしながらお金を貯め、大学も1年余分に行き、大学5年生の夏休みに、一ヶ月半のロシア短期留学に参加する事にしました。
たしか交通費・宿泊費・食費・授業料すべて込みで40万円ぐらいだったと記憶しています。当時の日本円の強さを考慮し、またホテル等のグレードを考えると破格の安さで驚いたのを覚えています。
 ・訪問都市はモスクワ、キエフ、そして授業のあるレニングラード(現サンクトペテルブルグ)
 ・宿泊ホテルはレニングラードでは最高級ホテルのアストリアホテル
 ・ロシア語の授業はレニングラード大学の教授陣(但し授業はホテル内)
 ・各都市ではガイド案内つき見学ツアーあり
という豪華な内容。
おそらく相当な部分をロシア語普及=ソビエト社会主義の情宣の一環としてソ連政府が助成していて、この価格になってると思われます。
それにまだ日本円は国際通貨としては弱く
1983年1月末の対ドルレートといえば@¥240(本日で@¥108~109ぐらい)
ロシアルーブルに到っては当時は固定レートで1ルーブル=@¥360、今っていくらぐらいだと思います?驚く無かれ@¥1.74ですよ~2円弱!!なんと約210分の1
ヨーロッパ旅行なんて庶民にとっては高嶺の花、私が会社に入って初めての欧州出張の際のチケットがエコノミーで約85万円、ソ連領域は飛べないので、アンカレッジ経由で給油の為、アンカレッジに1泊していました。
今ロシアでもめったに見ないコペイカ(100コペイカで1ルーブル)も当時は1ルーブルは高額紙幣でもっぱら使うのはコペイカでした。お菓子やジュース買ったりする一日のおこずかいはMax1ルーブルだったのを覚えています。
そして交通費。すべての交通機関は国営なので、どちらかというと営利企業ではなく、社会インフラという感じで安い。そしていろいろな交通手段を楽しむことが出来ました。
 ・横浜~ナホトカ 結構クラシックな客船
 ・ナホトカ~ハバロフスク あの有名なシベリヤ鉄道。楽しいのは最初の数時間、後は退屈です。
 ・ハバロフスク~モスクワ~キエフ~レニングラード 飛行機、アエロフロート航空です。
当時、外国人に解放された都市はごく一部の都市だけで、ほとんどの都市には行けませんでした。
ウラジオストックは軍事的にも重要な都市で、外国人は絶対行けない場所でしたので、ソ連崩壊後、ウラジオストックに初めて足を踏み入れた時は感慨深いものがありました。
という事で1983年の夏休み初めてソ連(というか初めての外国)に旅立ちました。

(当時写真撮影はかなり制限があったので、面倒なのでほとんど写真は撮らず。以下の写真は最近サンクトペテルブルグ、旧レニングラードに行った時の写真です)
当時宿泊し授業もあったアストリアホテル。建物の外観は昔と同じでした。
アストリアホテルの目の前にある聖イサーキー寺院
ロシア帝国の首都、ロシアの京都ですね。正面に見えるのは血の上の救世主教会(スパース・ナ・クラヴィー大聖堂)、内部も壮観です!

教会内部です。

2018年5月5日土曜日

2.東京ロシア語学院本科入学

第二外国語でロシア語を勉強しているうちに、なんとなくロシア語が出来るような気がしてきた。
と言うか、ロシア語を勉強する事が楽しい、もっと勉強したいと思う様になっていた。
そこで都内でロシア語を専門に教える学校を探した。当時二つあって一つはニコライ学院、一つは日ソ学院(現・東京ロシア語学院)で結局日ソ協会の本部に併設する日ソ学院に行く事にした。
何しろ当時英語が苦手で語学コンプレックスを持っていて、今さら中高6年間の遅れをキャッチアップするのも大変だし、できる人は大学でどんどんできるようになるのでその差は埋まらないと考えた。でも中高でロシア語を勉強している人はいないので、この大学でのスタート地点は一緒だから、ここで頑張ればロシア語では他をリードできるかも知れないと思った。

大学では水産資源管理学講座という研究室に入り、これは水産資源の管理を研究する、例えば資源保護の為には今年のサケの漁獲枠は何トンにすべきかといった判断の科学的な裏付けを研究する学問を勉強していた。でも海は国境を越えて繋がっているので自国だけで漁獲制限を設けても意味がなく、やはり隣国ロシアとの協調なくしては意味がないものであった。だからロシアの漁業省や水産研究機関とはこの水産資源管理という面では協力は不可欠なので、何らかの形でロシア語は自分の専門分野にも関係ありそうに感じた。実際、就職でいろいろ話を聞いてみると、大学を出て公務員になって水産庁へ→駐ロ日本大使館へ派遣→日ソ漁業交渉の交渉担当に、といったキャリアの人もおり、きっとロシア語は今の研究や将来のキャリアにも役立ちそうだと思った。

日ソ学院本科2部(夜間部)は2年制で夕方から毎日授業があった。一応ロシア語の世界では名の知れた専門学校だったので、講座という事でなく卒業証明書も貰える本科に行った。
その当時はロシア語をやろうという人は社会主義・共産主義に傾倒している人か、トルストイやドストエフスキーといったロシア文学をこよなく愛する人のどちらかで、私のようにどちらにも属さない人は少なかった。

一番鮮烈に記憶に残っているのはロシア人の男と女の先生で、勉強は超絶に厳しかった。宿題も山ほど出て、「大学時代は何を勉強していた?」と聞かれれば「半分は専門分野、半分はロシア語」というぐらいだった。何しろ授業というより訓練に近いハードさ。
今思うに二人ともKGBのメンバーか少なくともKGBで訓練を受けた人たちで、そんな厳しい授業もKGBでは当たり前、言わばKGB流特訓授業だったのかも知れない。
なぜならその当時は米ソが世界を二分している時代で、西側の自由主義世界にあこがれて多くの人たちが東側から亡命していた時代、ベルリンには東西ドイツを断絶する壁があり、その壁を乗り越えて亡命しようとして射殺されたりしていた時代、自由主義陣営の主要国に駐在しているロシア人はすべて国からの派遣であり、亡命なんぞしない思想的にもエリートしか来れない筈だった。
もし思想的にもぶれるようだったら簡単に日本で亡命してしまうし、そんな人材を日本に派遣する訳はなかった。

そんな厳しい授業の中にあっても、どんなにソ連が素晴らしい国であるかの話もよく聞かされたし、映画も見せられた。「いろいろな宗教、いろいろな民族はいてもお互いを理解、尊重し、力を合わせて理想の国をつくる」といったプロパガンダには、まだピュアな自分は多少なりとも洗脳されたし、今のウクライナ・ロシアの紛争なんか見ると、「あの当時のソ連の理想」を一度振り返って欲しいと思う。
授業の初めから、結構社会主義的用語は勉強させられ、今でも「ソビエト共産党中央執行部書記長」みたいな単語もスラスラ出てくるので、それを言うと今のロシアの若者は笑う。
ロシア語を広める事は社会主義を広める事でもあり、ソ連ファンを増やす事でもあり、そういう意味では完全に私は思惑通りのになった生徒であった。
時にはソ連大使館での映画の夕べやパーテイーに呼ばれ、その妙な一体感が何となく心地よかった。
そんな厳しいロシア人教師の指導の下でもモチベーションは維持していたので、しっかり授業にもついていった。

日ソ学院にはあのゴルバチョフやエリツイン時代に同時通訳で活躍され、エッセイストとしても有名な米原万理さんもおられて、直接授業はなかったけど、学園祭のロシア語劇の指導などしてもらった。ちょっと妖艶な雰囲気で、艶っぽくて、でも男っぽい面もあって面白い方だった。

先生も生徒もロシア語をやる人はちょっと「普通でない」ところがあって面白かった。

2018年5月4日金曜日

1.ロシア語との出会い

ロシア語との最初の出会いは大学入学後の第二外国語の選択の時だった。
全学生はドイツ語・フランス語・ロシア語のどれか一つを必修の第二外国語の単位として選ばなくてはならず、先輩や学内のいろいろな情報を聞いたところでは、「ロシア語の授業は出席を取らない、試験は易しい、一番単位を取りやすい」という事だったので、迷わずロシア語を選択した。

私の入学した大学は東京海洋大学(当時は東京水産大学)で、港区にあった(駅は品川駅だが)
港区にはソ連大使館やソ連通商代表部があり、また大使館内には日本駐在ロシア人子女の為の小中学校があった事から当時、港区にはロシア人が多く住んでいた。そのせいか当時としては珍しくネイティブのロシア人の講師が大学のロシア語の講座を指導していた。
日本人の商社マンと結婚したロシア人と聞いていたが、当時は何しろバリバリの社会主義時代のソ連邦だったから、なかなかロシア人を見る機会も少なかったし、ロシア人と結婚するハードルは今とは比較にはならない困難さがあったと思う。

そのロシア人の講師は金髪で背が高く、モデルのような女性だった。
最初の授業で彼女の言ったことは、
「教科書は使わない。まずは会話の勉強から」
それに加えて、
「ロシア語は美しい言葉だから、まず正しく綺麗な発音を覚えて」
「会話は人と話す行為、だから話す相手の目をしっかり見て話して」
といった事を言われた。今でも覚えているは自分のロシア語の原点であり、今もロシア語を学習する上で大事にしている事だから。
青くて大きくて美しい瞳にじっと見つめられて学ぶロシア語は、勉強して学ぶという事ではなく、どちらかというと洗脳に近い感じで、若い頭にスルスルと入っていった。

出席しなくても単位はくれるという噂だったのに、結局全部授業は休まず出席した。テキストは不要と言われたのに自分で役立ちそうなテキストを買い、自分で文法も自習した。
授業を出るだけでなく、授業が終わった後に「質問があれば教授の部屋へいらっしゃい」という言葉に乗せられ、授業後も彼女の部屋に行った。そういう輩は私だけでなく何人か居た気がする。みな別に質問があった訳ではなく、ただ集まってジャム入りのロシアテイーを頂きながら雑談するのだったが、それこそ「ロシアのお茶の文化」だと、後で理解した。
(※ロシア人はお茶を飲みながら延々と雑談するのが好き)

ここで私は大きな事に気付かされた。今まで英語は不得意教科で、成績も悪かったし、勉強もあまり好きではなかった。英語学習が楽しいとも一度も思ったことはない。
でもこうしてロシア語に触れていながら、それが頭に入っていくと、今までの語学学習方法はまったく間違っていたのではないか、こんなつまらない方法だったら身に付く訳がないと思った。
だから英語もそうやって勉強すれば良かったんだ~と改めて気づかされ、その後の英語や他の言語の学習もこのロシア語学習体験がベースとなって、自分なりに最短最良の勉強方法を考えながらマスターしていくようになった。

私の学生時代。東京海洋大学水産学部漁業生産学科