12.海の男Joeの時代 その3
アラスカやカナダの水産物の買付は競合他社はどこでもやっていて、競争競合は厳しかった。一方社会主義国、所謂ソ連邦をはじめ東側諸国との関係が強いうちの会社ならではの買付先もあった。
当時社会主義の国々は外貨が必要だったが、機械や電子機器は日米や欧州の製品に比べ品質は悪いし、製品のブランドも確立していないから、外貨を獲得する為の自国で生産し海外で販売できる輸出品は少なかった。その中でも貴重な外貨収入の一翼を担ったのが、遠洋漁業により漁獲した水産物の販売であった。ソ連やブルガリアの遠洋漁業船団は大西洋や太平洋の漁場まで出て行って魚を獲っていた。もちろんそれぞれの国でも水産物の需要はあるが、自国で消費するより、それを売って安い穀物や肉類を買って輸入する方が国の為だし、もしくは肥料や飼料を買って国内食料生産の為のものを買う必要があった。
我々が特にコネがあったのはブルガリア遠洋漁業公団で、彼らは北大西洋で赤魚(粕漬け等にするメヌケという魚)や南大西洋、いわゆるフォークランド沖でイカを漁獲していた。ソ連の船団とも取引があった。
そこでブルガリア船団の北大西洋沖(アイスランドの下ぐらい)でブルガリア船団が漁獲する赤魚を買付に、私が現場に飛ぶ事になった。当時の水産部のポリシーは現地現物主義、「自分で見て食べて、買え」という事だったので、漁業者上がりの漁業指導員を連れてブルガリア船に乗る。水産部の若手は常に現場最前線に飛んでいく要員で、その未知の世界に飛び込むワクワク感が楽しくて、そんな仕事・役割が好きだった。
大西洋を魚を追っかけて船団は動いているので、どこから船に乗れるのか、直前まで判らない。「ポルトガルから乗ってくれ~」とテレックスで連絡が来た翌日に「やっぱりイギリスから乗船に変更!」と連絡あり、慌ててチケットを買い換える。
結局、英国のUllapoolという小さなスコットランドの港から乗るよう連絡があった。グーグルマップも無い当時、観光地でも何でもない港町を探すのも一苦労、どうやって行くか調べるのも一苦労。ロンドンで乗り換えてスコットランドのインバネスからタクシーに乗ってネス湖近くを通って大西洋側の海に面したUllapoolまで何とか辿り着いた。
※今改めて地図を見るとまっすぐUllapoolに行くならネス湖は通らない。たぶんネス湖が見たくて遠回りしたんだと思う
到着してもブルガリア船団が港で待っている訳ではなく、今と違って船上と陸はそれ程きちんと連絡が取れている訳でもなく、とりあえず海の見えるB&Bに泊まって、船団が現れるのを待った。数日、毎日不安を抱えながら海をぼうっと見て過ごした後、ある日水平線の向こうに黒々とした船団の影が遠くに見えたので、港湾事務所に行って、どこの船か、何か連絡が無いか確認した。「ブルガリア船団で誰かを乗せる必要があるとの事らしい」との事で、やれやれまずは良かったと安堵した。
なんか大丈夫かな?ってな出国手続きを済ませ、港湾事務所で待っていると、船から小さなボートがやってきて「Are you Mr.Miyagawa?」とひげ面の男に聞かれ、そうだというとこのボートに乗れと言われ乗った。
それから2ヶ月、荒れる北大西洋でブルガリア船上でブルガリアの男達と過ごす事となった。別に2ヶ月船上にいるつもりも、いる予定も無かったが、ずっと港には寄らないので、下船できる方法がなかった。漁獲した冷凍魚も食料や燃料の補給もすべて洋上で行われるので漁船自体は港に寄港する事は無く、下船はその補給船に乗り換えて、英国北部のシェットランド島のレイルウイックという港町に到着して、それから飛行機に乗り換えて帰国した。
北大西洋は何しろ荒れる。僕は船酔いするタイプなので辛かった。ちょっと気分が良くなって何か食べようと食堂に行くと、脂っこい羊肉の料理が出され閉口した。
赤魚はトロール漁法で漁獲、獲った直後に頭を落とし、内蔵を除いて冷凍する。
漁場によっては寄生虫が着いている魚が多い場合もあり、その場合は日本向けの製品にはしない。2ヶ月も一緒に生活すると船員達ともすっかり仲良くなり、下船する時はいつかブルガリア本国で会おうと住所を貰ったが、その後ブルガリア本国に行く機会はなかった。
トロール漁法で獲った赤魚。この感じは結構豊漁
ブルガリア漁船もソ連漁船もほぼ形は同じ、船体は古い
スコットランドの港町Ullapoolでブルガリア船団を待つJoe
トロール網にぎっしり入った赤魚
どんなサイズ、どんな色の赤魚かを漁獲後チェック
船内の加工場の中で船員達と。すっかり馴染んでしまっている
機械で頭を落とし、内蔵除去は手作業
赤魚を冷凍機に並べ凍結へ
赤魚の凍結後の製品。乾燥しないようにグレーズ(氷の膜)をかける
船内の食堂で(一応幹部の食堂で食事)
船の幹部スタッフ(事務長、船医、工場長の3人と)