2018年12月23日日曜日

15.若き副社長の時代 その3

15.若き副社長の時代 その3
 クリスマスシーズンという事でクリスマスの思い出。と言ってもロシア正教のクリスマスは1月7日なんですけどね(写真の日付は91年12月28日とあるので忘年会ですね)
 親会社と合弁会社社員が皆参加してのクリスマス会、サハリンの夜に他に楽しい事がある訳でなく、社員全員が会社行事のクリスマスパーティーを楽しみにしています。ダンスあり、歌や演奏あり、小話ありと普段オフィスでは見せない面を皆見せてくれます。私の運転手は「お笑い」担当、アネックドートというロシアのお笑い小話を披露、ロシアの宴会には必ず誰かがやる事が習慣になっています。
 サンタクロースに相当するのはジェットマロース、まさにサンタおじさんです。そしてロシア特有なのはスニエグーラチカという「雪の女の子」というのがクリスマス会のスターです。勿論かわいい+美人+「スターになりたい」「目立ちたい」という気迫が必須という役、私の秘書は美形ではありますが、人を押しのけてというタイプでなく、親会社の営業部長で社長の娘がこの役をやりました(彼女の名前も思い出せない…あんなに世話になったのに)
 勿論、ロシアの宴会ですから最初はシャンパン、ワインでスタートしますが、やっぱり後半はウオッカの応酬。私も芸が無いので下手なロシア語で挨拶して、ウオッカを一気飲み、そしてダンスというパターンでした。ロシア人はダンス好き、スニエグーラチカも酔っ払うと日本から来ている私を独占したがり、写真を見るといつも彼女と写っている記憶がありました。
ジェットマロースは財務経理のハンサム系男子
スニエグーラチカは自他共に認める美形営業部長。小学校時代のお芝居でも主役をはってきたタイプ(笑)
「アラブからきたお客」という役の二人がりんごを配る
歌と踊り。
お笑い担当の運転手が「小話をひとつ…」
ウオッカを飲んで踊る酔っ払いの私
酔っ払って抱きつかれてる私
元社長。サハリン州の副知事になったので利益相反の為、退任。
彼女との2ショットの写真多し。まるで私の横は彼女のポジションという感じなのか…
若者中心の飲み会で。

2018年12月3日月曜日

14.若き副社長の時代 その2

14.若き副社長の時代 その2
サハリンでの合弁会社では当時極度の物不足に苦しんでいたロシア極東で、安くて品質の良い日本の商品を販売するマーケットの展開を計画していた。とは言え、物不足=外貨不足という根本的な問題あり、日本から商品を仕入れるにせよ、それを支払う外貨が無い。それゆれ、まずは何とか外貨獲得の手段を合弁会社で考えなければならなかった。外貨獲得の為の輸出といっても、天然ガスといった大規模投資を必要とするアイテムは扱い不可能で、大きな投資を必要とせずに、何かサハリンから日本向けに輸出できる商品開発が求められていた。
 となるとやはり水産物や農産物という事になる。タラバガニやボタンえびは当時のロシアにとって外貨獲得の為のドル箱商品であり、その輸出は既得権益として限られた輸出業者が牛耳っていた。新参者が取り扱える商品はまだそれほど開発されていない蕨、ぜんまい、ねまがりダケといった山菜、昆布、シジミ、なまこといった水産物に限られていた。
 そこで我々が目をつけたのは北海道の食卓ではよく見かける「ラワンブキ」の商品開発であった。なにしろ山に行けばフキは山ほど生えている。誰も取らないので収穫の許可を取るのも簡単だった。ただ大変なのはフキの密生地に行く道がないので、道を切り開いてから刈り出さなければならなかった事、運よく出会わなかったがそういうところには野生の熊がいて危険だった事、失業者は多いのにフキを刈取るワーカーがなかなか集まらなかった事などである。
 刈取ったフキは筋を綺麗に取り除いて、ボイルした後、塩漬けにして、樽に詰めた。樽は結構高価なのだが、ポリタンクやポリ容器は現地でなかなか手配できず、昔ながらの樽を容器として使用するしかなかった。フキを茹でた時に、綺麗な緑に仕上がるように釘を入れて茹でていたが、一日中野外作業で日焼けしたりして農家の生活のようで、新鮮な日々だった。その土地に詳しいガイドに山を案内してもらい、何か日本向けに輸出できるもの(主に山菜だが)を山の中で探した。ねまがりダケは結構あったが、商業的に採算が合うかは難しそうだった。


ラワンブキを刈取るワーカー
作業中暑くて裸に
フキの加工場。といっても野外です
この事業のパートナーの社長。「これがお金になるの?」と
後ろ向いている左端の人物が日本人でフキの加工方法を現地の人に指導している様子

13.若き副社長の時代 その1

13.若き副社長の時代 その1
 ソ連崩壊直前の1990年、サハリンでは州政府にも強いパイプを持つ同州で多角的な事業を展開するサハリントレードセンター社とわが社は合弁会社サハリンジャパントレードセンター社を設立した。当時のサハリン州知事は革新的な経済学者でもあるフョードロフ知事で、会社経営に当時は斬新な日本の資本主義的な経営手法を取り入れようと知事の強い後押しもあって設立された合弁会社であった。社長はロシア側、副社長は日本側から出す事になり、なんと30歳にして同社の副社長を拝命する事となった。
 当時札幌支店におり、タラバガニの輸入取引で爆発的に利益を上げていたという実績が評価されたという事もあり、ロシア語も出来るという強みのおかげという事もあったが、副社長抜擢の理由は別にあった。
 というのはパートナーの会社サハリントレードハウスは会長・社長・副社長以下幹部はすべて女性というアマゾネス軍団のような会社。州政府にも強い影響力を持つおば様方が幹部で、会長はその後副知事に就任、州政府とも関係が強い企業の幹部という事で利益相反の立場から結局会長は辞任した形となった。
 そこでうちから副社長として誰を出すかと当時の役員・部長が考えた挙句、「強力なおば様方と衝突せずに彼女達にうまく取り入れそうな人材」という事で(当時はまだ)イケメン青年男子だった私が抜擢された形となった。当然合弁会社の経営で日露双方で意見が対立するケースも多々あったが、ハードネゴという形でなく、私が「お願いモード」でソフトに提案する事で、こちらの意見を取り入れてくれる事も多かった。
 合弁会社のオフィスも親会社の中にあったが、個室も与えられ、その個室の前には超美形の秘書がいた。親会社はレストランも経営しており昼はそこでランチを取るのだが、いつもその美形の秘書が同行して一緒に食事をしてくれていた。
 会長・社長に会うと「どう?元気?寒くない?ご飯はちゃんと食べてる?困ったことは無い?」と母親如くいつも心配してサポートしてくれて嬉しかったが、彼女達のひんしゅくを買わないようにサハリンでは昼夜品行方正に過ごしていた。社内は勿論、サハリンは社会が狭いので、どこでも関係者・知り合いがいるので、夜も羽目をはずす事なく過ごしていた記憶がある。
 合弁会社の社長だけはイケメン中年男子のブリロフ氏が就任、なかなかの人格者で親会社女性陣からの信頼も厚く、ジェントルマンでもあり、彼とは非常にいい関係を築く事が出来た。
サハリン州フョードロフ州知事と@州知事室で。当社のロシア室長と。
サハリントレードハウス社ののマダム・レベジョバ社長
左側女子が私の専属秘書。写真よりずっと美形~両隣も女性社員
会社のPartyにて
親会社の社長とは常に仲良く、いい関係で
不覚にも今は彼女の名前がでてこない~

2018年10月18日木曜日

12.海の男Joeの時代 その3

12.海の男Joeの時代 その3
 アラスカやカナダの水産物の買付は競合他社はどこでもやっていて、競争競合は厳しかった。一方社会主義国、所謂ソ連邦をはじめ東側諸国との関係が強いうちの会社ならではの買付先もあった。
 当時社会主義の国々は外貨が必要だったが、機械や電子機器は日米や欧州の製品に比べ品質は悪いし、製品のブランドも確立していないから、外貨を獲得する為の自国で生産し海外で販売できる輸出品は少なかった。その中でも貴重な外貨収入の一翼を担ったのが、遠洋漁業により漁獲した水産物の販売であった。ソ連やブルガリアの遠洋漁業船団は大西洋や太平洋の漁場まで出て行って魚を獲っていた。もちろんそれぞれの国でも水産物の需要はあるが、自国で消費するより、それを売って安い穀物や肉類を買って輸入する方が国の為だし、もしくは肥料や飼料を買って国内食料生産の為のものを買う必要があった。
 我々が特にコネがあったのはブルガリア遠洋漁業公団で、彼らは北大西洋で赤魚(粕漬け等にするメヌケという魚)や南大西洋、いわゆるフォークランド沖でイカを漁獲していた。ソ連の船団とも取引があった。
 そこでブルガリア船団の北大西洋沖(アイスランドの下ぐらい)でブルガリア船団が漁獲する赤魚を買付に、私が現場に飛ぶ事になった。当時の水産部のポリシーは現地現物主義、「自分で見て食べて、買え」という事だったので、漁業者上がりの漁業指導員を連れてブルガリア船に乗る。水産部の若手は常に現場最前線に飛んでいく要員で、その未知の世界に飛び込むワクワク感が楽しくて、そんな仕事・役割が好きだった。
 大西洋を魚を追っかけて船団は動いているので、どこから船に乗れるのか、直前まで判らない。「ポルトガルから乗ってくれ~」とテレックスで連絡が来た翌日に「やっぱりイギリスから乗船に変更!」と連絡あり、慌ててチケットを買い換える。
 結局、英国のUllapoolという小さなスコットランドの港から乗るよう連絡があった。グーグルマップも無い当時、観光地でも何でもない港町を探すのも一苦労、どうやって行くか調べるのも一苦労。ロンドンで乗り換えてスコットランドのインバネスからタクシーに乗ってネス湖近くを通って大西洋側の海に面したUllapoolまで何とか辿り着いた。
※今改めて地図を見るとまっすぐUllapoolに行くならネス湖は通らない。たぶんネス湖が見たくて遠回りしたんだと思う
 到着してもブルガリア船団が港で待っている訳ではなく、今と違って船上と陸はそれ程きちんと連絡が取れている訳でもなく、とりあえず海の見えるB&Bに泊まって、船団が現れるのを待った。数日、毎日不安を抱えながら海をぼうっと見て過ごした後、ある日水平線の向こうに黒々とした船団の影が遠くに見えたので、港湾事務所に行って、どこの船か、何か連絡が無いか確認した。「ブルガリア船団で誰かを乗せる必要があるとの事らしい」との事で、やれやれまずは良かったと安堵した。
 なんか大丈夫かな?ってな出国手続きを済ませ、港湾事務所で待っていると、船から小さなボートがやってきて「Are you Mr.Miyagawa?」とひげ面の男に聞かれ、そうだというとこのボートに乗れと言われ乗った。
 それから2ヶ月、荒れる北大西洋でブルガリア船上でブルガリアの男達と過ごす事となった。別に2ヶ月船上にいるつもりも、いる予定も無かったが、ずっと港には寄らないので、下船できる方法がなかった。漁獲した冷凍魚も食料や燃料の補給もすべて洋上で行われるので漁船自体は港に寄港する事は無く、下船はその補給船に乗り換えて、英国北部のシェットランド島のレイルウイックという港町に到着して、それから飛行機に乗り換えて帰国した。
 北大西洋は何しろ荒れる。僕は船酔いするタイプなので辛かった。ちょっと気分が良くなって何か食べようと食堂に行くと、脂っこい羊肉の料理が出され閉口した。
 赤魚はトロール漁法で漁獲、獲った直後に頭を落とし、内蔵を除いて冷凍する。
漁場によっては寄生虫が着いている魚が多い場合もあり、その場合は日本向けの製品にはしない。2ヶ月も一緒に生活すると船員達ともすっかり仲良くなり、下船する時はいつかブルガリア本国で会おうと住所を貰ったが、その後ブルガリア本国に行く機会はなかった。

 トロール漁法で獲った赤魚。この感じは結構豊漁
 ブルガリア漁船もソ連漁船もほぼ形は同じ、船体は古い
 スコットランドの港町Ullapoolでブルガリア船団を待つJoe
 トロール網にぎっしり入った赤魚
 どんなサイズ、どんな色の赤魚かを漁獲後チェック
 船内の加工場の中で船員達と。すっかり馴染んでしまっている
 機械で頭を落とし、内蔵除去は手作業
 赤魚を冷凍機に並べ凍結へ
 赤魚の凍結後の製品。乾燥しないようにグレーズ(氷の膜)をかける
 船内の食堂で(一応幹部の食堂で食事)
船の幹部スタッフ(事務長、船医、工場長の3人と)

2018年10月14日日曜日

11.海の男Joeの時代 その2写真だけ

11.海の男Joeの時代 その2の写真追加

前回はズワイ蟹の写真だったのでタラバガニの写真も追加

活きているタラバガニはこんな感じ
 船の甲板に大量のタラバガニが
漁船から工場へ水揚げ作業


タラバの脚をかごに入れてボイル


2018年10月12日金曜日

11.海の男Joeの時代 その2

11.海の男Joeの時代 その2
 アラスカの夏が鮭なら冬は蟹。冬のベーリング海はいつも荒れているから漁民にとってカニ漁は命がけ。
蟹を買うバイヤーも今度はアラスカの西の端、アラスカ半島の先端のその先ダッチハーバーやアクタンまで悪天候の中を飛んでいくので、こちらも命がけ。猛吹雪の悪天候で2-3週間フライトが飛ばないなんて日常茶飯事。特にダッチハーバーの空港は滑走路が短く、滑走路の片方は崖が迫っている。空中旋回をしながら、降下して滑走路のもう片方から一気に着陸する。私が体験した空港の中では今でも一番怖い空港だ。
 カニは自分の水産バイヤーのキャリアの中で一番買ったアイテム、今まで何千トン買っただろうか?買う為には検品もする、検品は見るだけでなく勿論食べる。原料の鮮度、身入り、ボイル時間と温度、塩味、食べてみないとわからない、もう今まで何トンぐらい試食したか(笑)末端価格数千万円?(笑)私の買ってきた北洋のカニは種類はタラバ・ズワイ・毛ガニ・ダンジネス、産地は東カナダ、アラスカ、ロシア極東、加工は生とボイル、冷凍方法はブライン凍結、エアーブラスト凍結、窒素凍結、二酸化炭素凍結とカニ買付はプロを自負していた。当時は顔がカニに似てきたと同僚にからかわれた。
 この写真はアラスカダッチハーバーでのズワイガニ買付の時のもの。カニは生とボイルとあって関東向けは解凍したらそのまま食べれるボイル中心、関西向けはカニ鍋の需要が多いのでボイルしないカニが主流。凍結方法はブライン凍結といってガンガンに冷却してた飽和食塩水の中にカニを漬けて凍結するシステム。
 まだこの頃はソ連崩壊以前でロシア極東のカニはそれほど輸入されておらず、ズワイガニは東カナダとアラスカが主流だった。1991年のソ連崩壊で国が漁獲も輸出も統制していた時代が終わり、ロシア極東の都市で外人が入れる都市はナホトカだけという状態から外人も自由にどこでも行けるようになり、ロシア人も国から選ばれた人間だけが、外国に行けて、国の貿易公団だけが外国と商売できるという状況からロシア極東の各地の漁業コルホーズが自ら輸出取引ができるようになり、一気にロシア産水産物が日本になだれ込んできた。最初は品質もめちゃめちゃ、足も折れてばらばらだったが、我々がロシア極東を走り回って品質改良指導をしてきた。勿論相手は漁業コルホーズの面々だったのでウオッカもめちゃめちゃ飲んだなあ~
 
 カニ漁船。ものすごい着氷だが着氷で重心が高くなってくると船が転覆するリスクがあるのでこまめに着氷をはがしている
 寒そうでしょう?寒いです
 かなり小さいカニ漁船
 大型漁船からカニを引き揚げる作業中
 獲ったカニは船底のタンクへ。海水を循環させているのでカニは生きている
 甲羅と鰓を外して脚だけを凍結
 手前はボイルタンク。奥にチリングタンク、その次はブライン凍結機
 ダッチハーバーの滑走路は着陸にテクニックがいる


ボイル前のズワイガニ
ボイル後のズワイガニ

2018年10月11日木曜日

10. 海の男Joeの時代 その1

10.海の男Joeの時代 その1
 シシャモの買付けでカナダによく行く辺りから、ニックネームはJOEと名付けられるようになった。確かニューファンドランド島のパッカーのオーナーが名付け親だった記憶がある。実際に名刺にも「Yoichi Joe Miyagawa」とニックネームを刷り込むようにしていた。最初は「ヨウイチ⇒Yo」と呼ばれていたが、中国人みたいだし、欧州の名の「ヨハン」「ヨハネス」がアメリカ大陸に渡って「ジョン」「ジョーン」になったので、Yo⇒Joeという名に収まったという感じかも知れない。
 他の商社の買付けメンバーも皆ニックネームを持っていた。と言うのは取引相手は浜の魚屋だから、日本の名前なんか覚えてくれない。名前覚えてくれないと仕事面では圧倒的に不利になる。漁業者が「今日はいい魚が獲れた。さて誰に売ろうか?」と考えたとき、バイヤーは真っ先に思い浮かばれる存在でなくてはならない。「えーと何ていう名前だっけ?」ではダメ、「そういえばあの性格のいいJoeは、娘に可愛いお土産買ってきてくれたなあ~今回は彼に売ろうか!」という流れが欲しい。覚えやすいニックネームを持って、プライベートでも家族ぐるみで付き合う関係を維持する事がバイヤーとしては必要なのだ。できるだけ安く買って利益を出すのが「いいバイヤー」だと思っている人がいるが、本当にいいバイヤーは「良い品物を作る生産者と信頼関係を構築し、その関係を維持していく」バイヤーなのだ。だから一番汗をかいてリスクを背負いながら魚を獲ってくる漁業者やパッカーにお金が回るよう心がけている。ぶったたいて安値で買おうとするバイヤーは瞬く間に業界で情報が回ってバイヤーとして干されてしまう。
 魚の買付けの中でも水産バイヤーとして仕事の醍醐味を味わえるのはアラスカの鮭の買付けだろう。アラスカに鮭が遡上してくるのは年1回6-7月で、この短い期間で1年間消費する鮭を一度に仕入れる。鮭は日本でもマグロについで人気のある水産食材で仕入れる量=金額も大きい。この鮭の仕入れの良し悪しは一年間の所属する部署の利益に大きく影響する。
 脂の乗ったフォールスパスやカッパリバーの紅鮭、そしてメインの産地となるブリストルベイへと漁獲エリアは刻々と移っていく。もちろん漁獲した鮭は漁船から加工船に引き渡され船上で加工し、凍結する。もしくは陸上の工場で加工・凍結する場合もある。加工船でも加工工場でも、そこに行く陸路は無く、海からか空からか行くしかない。
 空から行くにしても飛行場がある訳ではなく、我々バイヤーは飛行機をチャーターして飛び回り、着陸できそうな近場に着陸する。水上に着水できる水上飛行機の場合もあるし、ヘリコプターの場合もある。一度ヘリコプターで加工船の上まで行き、ホバリングしている間に縄梯子で船に降りた事もある。チャーター飛行機もセスナ程度の小型機でめちゃめちゃ揺れるし、助手席に乗ってるとジェットコースターみたいで怖い。パイロットも「どこに着陸したらいいかな?」と自分に聞くし(俺に聞くな~と心で叫びながら)、地上の加工船と連絡して、彼らと相談して近くの浜辺に着陸・着水する。そこに加工船や加工工場から出迎えのボートが来てくれて、それに乗って加工船までたどり着くというスリリングなジャーニーだ。(まさに「クレージージャーニー!」)
 小型ボートで加工船に向かう途中の写真。ちょうど冷凍運搬船に冷凍後の製品を積み替えるところ
 「エアータクシー」と呼ばれるチャーター飛行機から降りて一安心の私。安堵の表情
 浜には当然管制塔はなく、それぞれの飛行機同士、衝突しないように連絡を取り合って離着陸している
 チャーター飛行機から見た加工船。これぐらいの時に船に無線に連絡して「どこに降りたらいい?」「近くの浜に降りて。そこまでボートで迎えに行くから~」てな会話をする
 ブリストル湾の紅鮭。24時間体制で生産は続く
 内臓を出して、頭をとる場合とらない場合がある。新巻鮭とかは頭つき
 どこの飛行場だったか、滑走路の近くで飛行機が来るのを待っていた