2回目の出張も入社1年目の11月だった。行き先は今話題の国、北朝鮮。当時は通常の数次旅券では渡航できなかったものの、外務省に特別に許可を得て、北朝鮮渡航だけの為に1次旅券を発行して貰って渡航していた。一方ビザの方は上野にある朝鮮総連関係のオフィスにビザ申請書類を出し、それが本国に渡り審査されて、ビザの許可が下りると日本は国交が無いので北京の北朝鮮大使館に連絡が行き、北京の北朝鮮大使館でビザを貰ってから北京経由で入国していた。そういう複雑な手続きの上でビザが発行されるので、いつも「本当にビザが下りるのか」と心配しながら、まずは北京に飛び立った。すぐ北京ですぐにビザが貰える事もあれば、理由不明のまま北京で数週間待たされる事もある。そういう場合は日本に戻る訳にもいかず、でも北京で何もしない訳にもいかず、新入社員の私は「空港の送迎」「北京の観光案内」「万里の長城ツアー案内」「夜の北京ダックの夕食会アレンジ」を担当していた。当時中国ビジネスブームで日本からのお客さんも多く、また派遣される技術指導者の方も多かったので、毎日仕事があって忙しかった。何度万里の長城に行って、何度「便宜坊烤鴨店」で北京ダックを食べた事か。中国語も中国ビジネスも知らないが、北京観光案内は得意になっていた。
当時はソ連は83年に領空侵犯をした大韓航空機を撃墜するような国だったし、中国はまさに共産中国で街は暗く、人々は皆人民服を着ていた。勿論女性も化粧なぞしていないし、街を歩く人々の表情も暗く固かった。ところが北朝鮮では平壌に着くとカラフルなワンピースを着て、化粧をした美形な女性が空港で出迎えてくれて、自分の知る共産国ソ連・中国・北朝鮮の3国の中では断然、いい国・豊かな国・進んだ国のイメージだった。当時は金日成主席が健在で、やはり「創業者社長が自ら進んで現場で指導し、社員も社長を慕って元気のある会社」という感じの国で、だから出張時の住み心地はとても良かった。
北朝鮮のメインの仕事はタラコの買付。それも明太子原料用のタラコで、買い付けたタラコはすべて九州の明太子製造業者に販売された。1980年代に明太子ブームが起き、以前は一部のグルメだけが福岡のお土産として買い求めていた明太子が、一般的になり全国の食卓の上にのる食材となった。ブームとなった要因は我々の努力もあって米国・ロシア・北朝鮮でタラコの開発輸入が進み、原料価格が下がった事、それと明太子業者のフロンテイアといえる明太子業者「やまや」の明太子の拡販・宣伝による貢献が大きい。我々北朝鮮で買付したタラコも多くは「やまや」に販売された。輸入原料でないタラコの場合、北海道で獲れ、塩タラコに加工された物を原料として使用する。それなのに明太子は北海道の塩タラコより安い。何故かというと明太子を作る時、塩タラコを明太子のタレに数日間漬け込むのだが、漬け込むと塩タラコはたっぷりタレを吸い込む。この各業者秘伝のタレが明太子の美味しさなのだが、タレはつまり水を吸い込む事で重量が重くなり、重量当たりの単価は下がるという理屈である。
余談ではあるが、この「水を使ったトリックで儲ける」というのはある時代ブームになり、我々「水商売」と呼んでいた。例えば昔のもやしはブラックマッペといって黒い皮が残る細いもやしが一般的だったが、ある時から今の緑豆もやしにほとんど切り替わった。緑豆もやしは確かに太くてシャキシャキして美味しい、でもそれはなぜなら緑豆は水をたっぷり吸うからであり、水の分だけ重量当たり単価は安くなる。緑豆もやしが安いのはほとんど水を買っているようなものだからである。例えば塩サケも新巻サケに代表されるしっかり塩漬けして身が締まったサケは塩分も高く、また外側に近い方は塩辛く、中に行くほど塩味が薄くなるのだが、しっかり塩漬けした塩サケは逆に水分が出るので値段が高い。そこで「安くて美味しい定塩サケ」という商品が開発された。これは沢山の注射針で鮭の切り身に塩水を注入するのである。そうする事だ切り身のどの部分も一定の塩分でまろやかな塩味で身もふっくらした感じになる。しっかり塩締めた塩鮭は例えば1キロの生鮭原料が水分が出て800グラムぐらいになるところ、定塩で塩水を注入すると1.3キロぐらいになる。つまり増えた300グラムは水という訳だが、そういう事は知らず、消費者は「塩辛くて辛い身の堅い鮭切り身」より「まろやかな塩味でふっくらした鮭切り身」を好んで買う。
北朝鮮に話を戻す。北朝鮮に入ると行き先別のチーム毎に世話人の女性(党幹部や偉い人の子女)、案内人(たぶん保安部から派遣された監視役)、通訳(大抵日本語ぺらぺら)の3人が常時付いた。行き先別と言うのは、いつも3ヶ所ぐらいの港にある水産加工工場から買付けするので、当社の社員1名とたらこの目利きができて加工の指導ができる技術者1名と2名のチームで1ヶ所の現場に張り付いて生産に立ち会う。3~4チーム、6~8人のメンバーで11月~1月までの2ヶ月半ぐらい北朝鮮の各地の港に滞在した。
北朝鮮の地方にはそんないいホテルはないので、大抵我々は労働党幹部の別荘に滞在させて貰った。豪華な一軒家でコック、メイドがおり、毎朝コックが食材を仕入れる為に「夕食は何が食べたいか?」ききにきた。お金は払わなくてはならないが、「マツタケが食べたい。毛ガニが食べたい」とかわがままな頼みも時にはかなえて貰った。
荒天で船団が漁に出ない時は工場にはいかず、別荘で1日過ごすのだが、退屈なのでメイドを呼んで一緒にトランプやビリヤードをやって暇つぶしをしていた。基本は勝手に外出はできないのだが、ちょっと散歩に黙って出かけたら、機関銃を持った兵隊に逮捕され、案内人に怒られた。北朝鮮の東海岸なのだが、海岸には敵が上陸する事を想定して、すべて有刺鉄線が張られ、海岸に出られないようになっていた。また海岸線は武装した兵隊が常に警備しており、敵と間違われて撃たれなくて良かった。
正月は工場も休みなので、我々も一旦は平壌に戻って正月を過ごす事になる。地方では電話もうまく繋がらず、盗聴もされていると思うので、正月は社員が集まって直に情報交換ができるいい機会でもあるし、そうして集まった情報をテレックスで日本に送る事もできる。勿論テレックスはホテルのテレックスサービスに頼むので、すべて相手側に筒抜けだったので、いろいろ暗号も使っていた。
正月には皆で花束を持って金日成主席の銅像の前に新年の挨拶に行った後、いろいろ市内を観光案内してもらった。パリを真似た凱旋門、北朝鮮の基本思想の主体(チュチェ)思想の塔、加速度的な経済発展を象徴する千里馬像とかといった場所である。
他には映画やコンサートに招待して貰ったりもしたが、そういう時も貴賓席に座らされるので、開演直前まで貴賓室の待合室で待ってから、党幹部の観客と一緒に拍手に迎えられて会場に入るというVIP待遇だった。移動もベンツで交差点は警官による手信号が多いので、外国人専用車は信号で止まる事はなかった。
特に平壌での楽しみは焼肉と冷麺の食事で、今年金正恩氏が南北会談の際、韓国に土産で持ち込んだ「玉流館」の冷麺も何度か食べた。向こうからすれば水産物輸出=外貨獲得という事なので、我々も党幹部と同じレベルの厚遇で、いろいろ接待もして貰い、当時は北朝鮮出張は悪くはなかった。
平壌の凱旋門にて
平壌の主体塔